つづりストしませんか! 作文募集サイト

今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。


 真夏の昼、昭和天皇が、日本は戦争に負けた、とラジオで国民に知らせたのを国民学校(小学校)6年生だった私も聞きました。1945年8月15日の“玉音”放送です。あれから70年が経ちます。

 当時、私と同じ11歳から6歳(6年生から1年生)の少年・少女は、この日のこと、それまで続いたB29による空襲や、その後しばらくの飢えの日々を今もなお鮮明に覚えているのではないでしょうか。その少年・少女が今はもう81歳から76歳です。あの戦争と戦後に体験したことを話したり書いたりできる、これが最後の世代といえます。

 一人ひとりが身にしみて覚えている「あの戦争」を文字にして残し、いまの小学生とお父さん、お母さんに伝えようではありませんか。つらかったこと悲しいこと、怒りが主テーマになるのかもしれません。が、家族や友人、隣人たちとの間で起きた思い起こさずにはいられない人情の機微や琴線にふれるような事柄も多々あるのではないでしょうか。
     ☞ 例文を見る

 どんなことでも自由に書いて下さい。文章を書くのはしんどいという方もお孫さんに手紙でも書こうとの気持ちで歴史をのこしましょう。

●この企画の立案と原稿募集・出稿責任者は
  日本記者クラブ会員 谷 久光。
     ☞ プロフィールを見る


●企画・編集担当は
  NPO法人ここよみ代表 吉原 佐紀子 です。



【応 募 方 法】

作品の字数

800 ~ 1600文字(縦書き・横書きを問いません)

筆者データ

●住所、氏名、年齢、職業、日ごろ連絡がつく電話番号
●敗戦時にお住まいの市町村、学校名、何年生か
●疎開された方は、疎開前の市町村と学校名
  以上を明記。

送稿方法

① PCメールで。件名に「戦後70年原稿」と記入して下のアドレスまでお送りください。
 sengo70@tsuzzlist.jp
   ↑クリックしてください。

②郵送で。下記の宛先までお送りください。
〒154-0017
東京都世田谷区世田谷1-11-18
NPO法人ここよみ 「戦後70」作文係

締め切り

できるだけ早くお願いします。

公開方法

Web「つづりスト通信」、谷久光のブログ(http://ameblo.jp/sengo70/)等で紹介予定です。

※紹介作品には、作者のお名前(匿名も可)、敗戦時の市町村、学年(疎開された方は、疎開前の市町村と学校名も)を明記します。
また、本にまとめ、出版を目指します。

お問い合せ


谷 久光 携帯電話
090-2731-8547(留守電つき)

個人情報

現住所、電話番号などの個人情報は公開しません。また、すべての個人データは今回の企画以外には使用しません。


谷 久光(たに・ひさみつ)のプロフィール

 1934年東京生まれ。57年学習院大学政経学部卒。同年朝日新聞社入社、名古屋スタートで主に社会部畑を歩き、東京社会部次長、名古屋社会部長、東京企画報道室長、企画総務、編集委員などを歴任。

 退職後は2003年まで故平山郁夫氏が主宰する(財)文化財保護振興財団専務理事。

 著書に「牛肉」「公費天国」「地震警報が出る日」(以上共著)「文化財赤十字の旗」(聞き書き)「朝日新聞の危機と『調査報道』~原発事故取材の失態~」(著)。新聞の連載企画「企業都市」で日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞、同じく「兵器生産の現場」でJCJ 奨励賞を取材班として受賞。

 現在、日本記者クラブ会員。




 昭和二十年六月五日。B29の大編隊が阪神工業地帯を猛爆。西宮市も火の海となった。父は南方に行って一年余、銃後の家族四人は国民学校六年生の僕と母、弟と妹。実はこの日朝早く京都の八瀬に住む母方の知人宅へ縁故疎開で移ることになっていた。が、空襲警報のサイレンで隣家の防空壕へ飛び込んだ。その時爆弾と焼夷弾が束になって天から降り注ぐのを見た。ザーッと木々が揺れて砂塵が巻き上がり着弾の轟音とともに大地が揺れた。ゴーッと火炎と黒煙が巻き上がるのが入り口から見える。防空壕から逃げ出す。幼少の頃から見慣れた家並みが炎に包まれている。夙川の土手の松並木が横一線の火柱になる。やがて黒い雨が一団に降り注いだ。

 死傷者が出たが、我が家の四人を含め隣組の全員が無事だった。借家の我が家も爆弾の破片で半壊した。この日京都への移住は出来ず、翌日ほとんど手ぶらで移った。もし、上空での爆弾投下が一瞬ずれていたら直撃で死んだ、と子ども心に強く思い、皆にもそう話していた。

 転校したのだから、さし当たって何よりも、僕と二つ下の弟の教科書などが入ったランドセルを取りに行かねばならない。長男の僕が数日後に一人で西宮へ行った。ところがその日、大阪が大空襲に見舞われたのである。京都駅で省線が停まったことを知り、三条京阪で天満まで行った。そこから阪神の梅田へ歩く途中の市街地は火炎と黒煙に包まれ、市電が居座って炎を上げていた。

 西宮では隣組の皆によく来たとほめられ、ランドセル一つを背負い、一つはぶら下げてすぐに帰途についた。非常時態勢で、午後四時以降は勤め人以外は電車に乗れないからだ。天満駅で間に合わず、切符を売ってくれない。僕の後ろのおじさんが「子どもが説明しとんのに、ちゃんと売ったらんかい」と怒鳴ってくれた。

 おかげで暗くなったが疎開先の駅に降りた。もんぺ姿の母がわっと泣きながら二つのランドセルごと僕を抱きかかえた。




 小学校に入ったばかりの私にも戦争はかなり身近に感じられるようになっていた。まだ昼間だというのに空はまっ黒く太陽が不気味に赤い日々。空襲警報が出され、家の近い生徒は下校を促される。今では記憶違いではないかと思うのだが、死体が積まれたトラックを見たこともある。我が家は名古屋市立東山動物園に近く、夜になると尾をひくようなアシカの鳴き声が何とも物悲しく耳に届く。動物に与える餌がなく餓死を待っているという話を聞いたので、幼い私にも耐えがたい哀歌であった。

 京都の父の郷里に一家をあげて疎開をして半年、蝉しぐれの暑い日、突然とも思えるように戦争が終わった。大人たちは興奮して話していたが私自身それを実感したのは、夜になって今まで明かりが漏れないように電灯の周りにかけられていた黒い布が外されたのを見た時であった。「これからは明るい電気の下で本を読める」「バナナが1本全部1人で食べられる」。その輝き、思いはじわじわと希望の光となって私の胸に広がった。

 しかし実際にはそれからが私たち日本人にとって戦時中と同じように、いやそれ以上に苦しい日々であった。何しろ食べるものがない。母は慣れない畑作りをし、子どもたちも食べたさゆえに一生懸命手伝った。ようやくかぼちゃが赤ん坊の頭ほどになって明日はいよいよ収穫しようと話していて、翌朝起きてみると盗まれていた!あの時の落胆は忘れられない。それでも私たち子どもは両親の愛情に守られ、空きっ腹ながら元気に遊びに精を出していた。道には車も通らず、塾などというものもなく、「勉強しなさい」というべき親も先生も食べて生きることに忙しく、子どもは遊び放題。キャッチボール、缶けり、かくれんぼ、とんぼつり。

 キャッチボールには悲しい思い出がある。我々の財産であるグローブを弟がはめて遊んでいたところ、知らないお兄さんが来て奪って行ってしまった。泣きながら訴える弟に、母はひとこと。「その子も可哀そうに」。


ホームへ戻る >