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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。



西村若い人から質問ありますか?

質問者A戦争で普段の生活が劇的に変わったのは、食糧難以外に何がありますか?

ノミやシラミが困りましたね。着るものもあまり変えられなかったから。

西村シラミは潰しても潰しても、キリが無いから、煮えたぎったお湯に衣類を浸けて全部駆除していました。

進駐軍が来てからは、みんな頭にDDTの殺虫剤をかけられましたね。ノミやシラミはかゆくてたまらなかったし、不潔で嫌でした。弟と飛ぶノミをどれくらい人差し指でつぶして獲れるか競争してましたね。

何と言っても、戦前の恵まれた食卓から食べ物がどんどん無くなっていったのは大変に辛かったです。食べる物に困っていた戦争中、ただひとつだけ嬉しかったのは、ぼくの住んでいた西宮では戦争がひどくなっても学校では給食で小さなコッペパンが1つだけ配給されていたことです。

西村給食なんてありました?

はい、コッペパン1つだけですが。

西村それは恵まれていましたね。ぼくらの地域に配給は無かった。

ただそれだけが楽しみで学校に行っていました。たった1つのコッペパンでしたが、警戒警報が鳴って途中で空襲になったら帰宅になるのでコッペパンが無しになる、と心配しながらも毎日楽しみにしていました。

西村当時の小麦粉は2等粉でしたね。戦争に負けて、進駐軍が入ってきて1等粉の小麦粉が出てきました。それで作ったコッペパンの白いこと、こんなパンを米軍は食べていたんだと驚きました。

ああ、ララ物資でたくさん小麦粉が入ってきましたね。思い返してみれば、戦時中の大人は、明日にも死ぬかもしれないと不安になっていたんじゃないかと思うんですよ。

非常食の乾パンは早々無くなり食べる物は全く無いし、毎日枕元にラジオと防空頭巾を置いて寝ている。夜も空襲になれば隣の家の防空壕に逃げ込む毎日でしたから。でもぼくは子どもだったからでしょうか、心に明日死ぬかもしれないという思いはありませんでした。




明日 死ぬ思いなかった 無邪気で


西村そうですね。ぼくの地域で防空壕を掘る日があって、子ども心にぼくも参加できると嬉しくてスコップ持って行ったのですが、大人たちから「子どもは邪魔だからあっちにいけ」と言われて、悔しくて泣いて、おふくろになだめられたのを覚えています。ぼくも子どもだったから明日死ぬかもしれないと思わなかった。子どもだから無邪気だったんだと思います。

うん。あんな惨めな中でも、やっぱり子どもは無邪気ですね。好奇心かな?

西村そうですね。終戦後流行ったのは、「巫女の口」です。どこの国でも流行ったと思います。うちの叔父の息子が中国へ戦争に行って行方不明になって音信不通なので、生きているのか?どこにいるのか?とその巫女の口のおばさんにお金払って見てもらいに行っていました。

おふくろと叔母は、3日に1度もそこに通っていました。巫女の口のおばさんが「生きています」とか「今、川べりで馬を洗っています」とか言うんです。

その叔父の息子は、上官の馬の手入れをする世話係だったのですが、翌日、馬が逃げたので世話係の自分は殺されるだろうと行方不明になったのだと戦地から帰ってきた戦友が伝えてくれたのです。今でもひょっとしたら中国で生きているんじゃないかと思います。そういう巫女の口が大流行しました。

ああ。あと、千人針(一枚の布に千人の女性が赤糸で一針づづ縫い、千個の縫い玉を作った布)がありましたね。

西村ありましたね。

自分の夫や息子に赤紙(召集令状)が来て出征(軍に入隊)するとき、その女性が道に立って通行人に一針縫って下さいと協力を呼びかけてね。それを出征のときに持っていけば武運長久(出征した兵がいつまでも無事なこと)につながるっていうわけです。

西村八紘一宇(全世界を一家のように和合させること。日本が海外進出を正当化するスローガンとして用いた)とかの言葉も流行したね。

八紘一宇ね、鬼畜米英、いろんなスローガンが町にあふれていましたね。

西村100年の恨み忘れまい、とどめ刺すまで。撃ちてし止まむ。いっぱいありました。100年というのは下田に来たアメリカとの間の不平等条約(日米和親条約)です。

ぼくが疎開する前に近所の家に京都大学の学生が遊びに来て「いま日本はマッチ箱くらいの新しい威力のある爆弾を研究していて、これが出来あがればアメリカの町なんか町ごと吹っ飛ばせる」と言っていたのを覚えています。

広島に原爆が落ちたとき、原爆のことを新型爆弾、特殊爆弾と言って、新聞もそう伝えていたのですが、その新型爆弾で広島が被害を受けた時、子ども心に「あ、アメリカに先を越されたんだ」と思ったのを覚えています。

西村それで思い出したんだけど、大人に「道で缶詰類は拾ったらいけません。スパイが道に爆弾を缶詰にして置いてあるから、子どもが拾って中を開けたら爆発する」といわれました。ですから、絶対に缶詰は拾ったらだめだと思っていました。ぼくは、さっきもいったように家が商売をしていたので戦争中は食糧にはあんまり不自由しなかった。

それはかなり恵まれた家だと思いますよ。

西村戦争に負けてから本当の食糧難が来た。

うん。戦争に負けてからがとくにひどかったですね。でも昭和20年に入ったころからわが家は食べ物がほとんど無くなって困りました。

西村うん。小説の『ヴィヨンの妻』(太宰治の短編小説)、あれを読んでいても戦争中にバーに入ってウィスキーを飲んでいる描写ありますよね。食糧があるところにはあったんだなと思いました。

先ほども話しましたが、隣組でも軍に関係していた人の家にはありましたね。

質問者A終戦後、何年間くらいが食糧難で辛かったですか? 3、4年ですか?

3、4年…。でも長かったですね。朝鮮戦争が始まった25年から急激に良くなりました。朝鮮戦争が始まった日のことを覚えていますよ。あの日、ぼくは京都の高校2年で生物部に属していたのですが、顕微鏡を覗くのが好きで、池に行ってプランクトンネットで微生物を捕った帰り道にラジオのニュースで、北朝鮮が攻めてきて朝鮮戦争が始まったことを知りました。

一時、韓国・アメリカ軍は38度線を越えて中国国境近くまで攻めたのですが、冬に白い服を着た中国軍100万人が人海戦術で急遽殺到して来て、今度は半島から追い落とされそうになって、米軍が仁川に上陸作戦を展開、その機動力で押し戻して、結局いまの38度線で決着しました。

マッカーサーは原爆使用をめぐってだったか更迭され、極東軍司令官はリッジウェーに変わりました。でも、占領された時代はマッカーサーの印象しかありません。

僕はお堀端のGHQの建物からマッカーサーが出てきて専用車に乗り込むところをたまたま通りかかって目撃したのですが、写真で見慣れたとおりで威厳がありましたね。日本の景気回復はあのころからでした。

西村ぼくらは進駐軍に野球も教わりました。野球を実際に見たのはその時が初めて。

そうですか。ぼくは小学校の時に、布の玉で野球をやっていましたよ。

西村ほう。ぼくが小学校3年生の時に小学校の校舎は鉄筋コンクリートで、屋上は水を貯めることができる構造になっていて、塩がなかった当時、生徒が海水を汲みに行っては屋上に塩田を作っていました。

ぼくは釣りに行った時に海水を持ち帰り、琺瑯の鍋で煎って、茶色に残った塩を調味料にしていましたね。苦かったです。




広島と長崎、いまも許せない


質問者B戦争を体験されて、憎らしいとか恨みの感情は無かったんですか?

広島と長崎に原爆を投下した間が3日間(8月6日と9日)しかなかった。後に大学生になってからの考えですが、これは人種差別だと思いました。少なくとも当時はそうだったといまも思っています。

一般市民も巻き込む無差別爆撃は日本軍も中国の重慶などでやっていますし、3月10日の東京大空襲も無差別爆撃で一般市民が多く犠牲になっていますが、原子爆弾は次元が違います。人権を唱えるアメリカですが国としてのアメリカは信用はできないという気持ちはいまもずっとあります。

西村原爆を落とす許可を与えた人はどういう気持ちだったのかと今でも疑問に思います。

質問者C日本の軍隊や、天皇陛下に対して子ども心にはどんな思いがありましたか?

子どもの時は、天皇陛下を崇拝していました。学校に奉安殿があって、天皇陛下のご真影(写真)が入っていたので、そこに毎朝朝礼で学校全員で礼拝していました。玉音放送で生の声が流れた時は、音声が高くて驚いたのを覚えています。

西村天皇陛下の戦後巡行をぼくらはずっと国道26号線で眺めていたんですが、みんな下を向いて直視できなかったです。

ぼくは京都駅頭で見ました。

西村天皇陛下に私的な思いを馳せるなど、考えられなかった。

隣組の大人たちが、アメリカの大統領がルーズベルトからトルーマンに変わった時に「これでアメリカも弱くなるだろう」と話していました。

一方で、明らかに戦況は負けていたので「日本は戦争に負けるだろう」と言っている大人もいて、これに対して、ぼくと弟で子ども心ながら怒ったのを覚えています。勝つと信じていましたから。でもその後、日本が負けたことを知った時、飢え死にしそうでしたから妙に納得しました。

西村うちのおやじは海軍ですが、陸上で働く海軍で船に乗っていませんでした。炊事班長だったので、戦争に行って太って帰ってきました。(笑)

うちのおやじはジャワ島にいたから、オランダの植民地ですから、戦後オランダが戻って来て、軍の捕虜になりました。担当は散髪とパン焼きだったので、引き揚げてきてから、ものが出回るようになると家でパンを上手に焼いていました。

ジャワ島では戦争中でも朝からバナナを始め何でも食べられた、とおやじから聞きました。




資料は公文書で残すべきである


西村やはり、こういう戦記はきちんと公文書に残すべきですね。映画で『日本のいちばん長い日』(1967年公開の日本映画、監督・岡本喜八)というのがありますが、戦争に負けた時、市ヶ谷の駐屯地で中佐や少佐が集まって、占領軍が来る前に書類を焼いたんです。

あれを見て、司馬遼太郎が「この国は何だろうと思った」と言っていました。公文書が無ければ、未来に記録や参考資料が残らない。今度の企画も当時の子どもたちの記録であって、後世に伝えていく公文書と言えます。この対談も公文書ですよ。

質問者D進駐軍が配ったアメリカ兵のお弁当というのは戦後のことでしたか?

はい、戦後です。地域ごとに配られた所と配られていない所とあると思います。

質問者E戦後に進駐軍が配給した小麦粉を使って、みんながパンを作るなど、アメリカは日本人の食生活を変化させ、アメリカからの食糧輸入の癒着の基盤を作ったと聞いたのですが、戦後は食生活の変化を感じましたか?

いや、変化はそんなに無かったです。進駐軍が直接に食糧を配給したのではなく、ララ物資の放出でそれが配給されていましたから、多かったのは小麦粉と砂糖でした。砂糖は特にたくさんもらいましたが、食事にするわけにはいかず、カルメラというお菓子を作るのが流行りました。やがてはお米の配給も始まり、自然に日本食に戻っていきました。

でも、パン食とそのおかずで乳製品や肉類が割合で増えたことはあるでしょう。

西村どこの家にも、進駐軍からもらった砂糖がバケツ一杯あるんです。子ども心には「アメリカは大きなことするな」と思いました。しかし、それによって日本の食生活の土台が揺るがされたことはありません。

配給されたとうもろこしの粉で、とうもろこしパンを作るのも流行っていました。けっこう美味しかったです。

西村ぼくはカステラを作りました。

戦後は占領政策としてアメリカが日本に恩を売るために特別に美味しい物を配給するというより、日本の食糧問題が深刻化していました。

その一方で、中国が共産主義の毛沢東が率いる軍が全土をほぼ掌握、スターリンのソ連も強国だったので、アメリカとしては日本を共産主義の防波堤にしなくてはならないという地政学的な戦略があって、日本の復興に力を入れていた部分はあると思います。

質問者F(感想)戦争と言えば、私は『はだしのゲン』の印象が強いです。子どものころに見たので、あれが戦争なのかと教科書よりも心に残っています。

西村あの作品は賛否両論ありますが、漫画家から見ると文脈が通っていない作品だと思います。出版社の意向がかなり入っていると思います。水木しげるさんの戦争漫画の作品(代表作『総員玉砕せよ!』『敗走記』『白い旗』)は出版社の意向が入っていると聞きました。

背後には、悲惨なシーンが入っていないと売れないという意向があります。あの方は、温厚な人で、作品とは逆の思想を持つ方だと思います。編集者によって作品がガラッと変わってしまうので、ぼくらも見る目を養わないといけないなと思います。

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戦後の四コマ漫画には朝日の『ブロンディ』、『サザエさん』、夕刊では『フジ三太郎』、サンケイ朝刊に西村さんの『サラリ君』などですね。『サラリ君』と『サザエさん』との時期は?

西村サザエさんと同時期です。

30年間、4コマ漫画を連載したというのはすごいですね。ボーナスというテーマなら年に2回あるから30年なら60回ですね。同じテーマで60回違うことを描くのは大変でしょう。

ぼくは企画報道室のデスクの時に、朝日新聞の夕刊のニュースラウンジのページに西村さんがすでに1コマ漫画を描いておられて、そのときに一緒に仕事をしてとても親しくなり、その後もずっと描いて頂きました。1コマ漫画も味わい深く面白かったです。

今日はお忙しいところ長い時間、大切で興味深いお話をありがとうございました。


収録:2015年2月7日


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