西村 | ぼくは大空襲に遭って、人が吹っ飛んで行くのを目の当たりして、あのころぼくらは軍国少年でしたけれど、戦争しちゃアカン!と強く思います。あんなにそろばんの合わないものないですよ。
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谷 | 全くそろばんが合わないですよ。
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西村 | こんなにお互いの国にとって、そろばんの合わないことは無い。戦争をしてはいけないと言いますが、それでも特殊な地域では、懲りずに2000年間戦争している所もありますね、あれは別ケースですよ。戦争はしちゃアカン!
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谷 | そうですね。それはちゃんと伝えていかないと。
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西村 | うん、身に染みていますよね。
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谷 | いかに戦争をしないで、知恵をしぼり国家を運営するか、はとても大事ですね。
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西村 | そう、そう。
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谷 | かつて私は朝日の企画事業の統括をやっていたことがあり、いろいろな展覧会や音楽などを海外から日本に持ってくる責任者でした。中国の『楼蘭の美女』という少数民族の女性のミイラを上野の科学博物館に貸し出してもらう交渉のため、中国のウルムチで、新疆ウイグル自治区の政治協商会議議長にも会いました。
このミイラは発見された時、周恩来(しゅう おんらい)と郭 沫若(かく まつじゃく)が自国で調査するまで国外へ貸し出さないと決めていたので、議長との詰めの交渉にはかなり時間がかかりました。しかし、中国の国策が国の内外ともに開放政策に変わって“日中共同でミイラの学術調査をした成果を発表する”という形でならいいと言うことになり、考古、人類、解剖、保存科学の日中双方の学者で調査をして貸し出しが決まりました。 議長は豪放磊落なたいへん立派な人で、交渉を進めるにつれてお酒を酌み交すほどに、とても親しくなったころ、「実は、私の両親は満州(中国東北地方)で日本軍に殺されたんです」といったのです。 ぼくは本当に二の句が継げなかった。もっと詳しく話を聞きたかったのですが、議長の口からは日本人を逆恨みするような発言や表現がないばかりか、「過去は歴史になったから」と。それ以上話を聞くことはできませんでした。この言葉は被害者もので、加害者が口にすべきではないと強く思いました。議長と同じ経験をした人がアジアに数多くいることを忘れてはなりません。 |
西村 | そうですね。
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谷 | 戦争によってアジアの諸国でもたくさんの死者が出たことを忘れてはいけないなと思います。いろんな所で、第二次世界大戦で日本の死者は310万人だった。これ自体膨大な犠牲だけれど、アジアではその5倍の死者が出ています。あの戦争を語れる最終の世代だからこそ、それをとくに強調したいです。
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西村 | 戦争はいらん。戦争ほどそろばんに合わない物はない。
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谷 | 本当にそうですね。
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西村 | これは余談ですが、日露戦争(1904年)は、とくに陸軍双方は力量でリギリの所で終わっているんです。辛うじて日本が勝った。しかし、日本国内は喝采して日比谷公園で戦勝祝賀の大集会があった。「日本一の兵隊、世界一の軍隊」と非常に歓喜に沸きました。
そこが間違いだったと思います。戦勝の日本が敗れたロシアから獲った領土が少なすぎると焼き討ち事件までおきた。当時の新聞も大いに煽ったので責任があります。実態は引き分けです。 そろばんに合わない戦争を日本がなぜ忘れたか。この時の戦争の記録を事実の通りに残しておけば、第二次世界大戦を仕掛けることは起こっていなかったと思う。あの時みんな、何を思ったのか、「日本は世界一の民族だ」という風潮になってしまった。 |
谷 | 新聞は煽ったし、国民もそのまま神がかりになりましたね。日露戦争は挙国一致で勝った、というのは事実です。でも海軍は圧勝したが陸軍の戦いは、あれは西村さんもおっしゃったように勝っていない、ほとんど引き分けです。
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日露戦争の陸軍は引き分け
西村 | 勝っていない。ロシアにとって日本は極東の辺境の地です。機会があればもう一回戦争するくらいのつもりで来ていたと思います。 |
谷 | 司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、日本の陸軍の騎馬隊を率いる秋山好古(よしふる)が、ロシア軍の背後に回り込み、クロパトキンが慌ててロシアの大軍を撤退させた。
なぜ撤退したかといえば、領土が広いから自軍が後ろへ下がることで敵軍を引きずり込んで、兵站(へいたん)を延びきらせれば日本は物資の補給が出来なくなりロシアは勝つわけです。 でも結果的にクロポトキンの戦術は戦意を喪失させた。日本はぎりぎりで勝った。ロシアの戦法というのは昔からそうで、ナポレオンもヒットラーもそれでやられました。 |
西村 | 国土の中へ中へ引きずり込んでいくからね。
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谷 | 日本は東郷司令長官の日本海軍がロジェストウェンスキー率いるロシア艦隊に日本海海戦で圧勝しましたが、陸軍は途中までの戦術をあのまま続けていたら完敗だったのを大連の旅順港を見おろせる二百三高地を抑えてロシアの堅牢な要塞をやっとのことで破壊し、最後は野戦でどうにか辛勝した。
それを、西村さんがおっしゃったように、正確に国民に伝えず、世界一の民族と国中が思い上がった。 |
西村 | 東京大学などの7人の教授が連名で「沿海州まで取れ」と。それは新聞に書かれてます。陸奥宗光は領土問題の交渉に行く時に、帰ったらやられるという覚悟で行ったでしょう。
日露の和睦交渉はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが仲介した。辛うじて日本が勝った事実をきちんと後世に伝えていれば、第2次世界大戦を起こさずにすんだかもしれない。史実の正確な資料を持たずに戦争をするほど危ないことはないですよ。 |
谷 | 孫子の兵法どころじゃないですね。結局、その後「神の国・日本」という精神主義に偏重する風潮になった。そこから日清戦争以降は軍部の独走で、ついに無謀な太平洋戦争に突入して国が敗れた。戦争はいかん。国民も他国民も大量死する。
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西村 | 戦争はやめたほうがいい。こんな高くつくものはない。
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谷 | 話を戻しますが、戦時中、子どもだったぼくが、本当に死にそうになってゾッとしたのは、家が爆撃で半壊した時と、機銃掃射にやられた時の2回くらい。それ以外に敵にやられて死にそうになった恐怖は覚えがない。
だけど、食べ物が無くなったのは、本当に参った。飢え死にしそうとの実感があって、こっちの方が死にそうでした。 |
西村 | ぼくの実家の東70mくらい先に、零戦を造っている軍需工場がありまして、情報が漏れないように海の堤防でシャットアウトしてありました。ぼくの2番目の兄がそこで働いていたんです。
もちろん、米軍には工場の位置を知られていました。ある日、その工場で火事が発生して、それを敵機は見逃がさずに工場を狙いに来ました。ぼくは「灯火管制しているのに工場が火事を起こしている。これで兄も工場も全部おしまいだ!」と思いました。 が、風向きがよく、焼夷弾が何千発かザーッと音を立てて海の方へ流れていったので被害を免れました。あの時は恐かった。工場どころか敷地も全部爆破されるだろうと思いました。翌日、焼夷弾の不発弾を拾いに行きました。高く売れましたから。 |
谷 | うん、焼夷弾とか爆弾の破片とか、たくさん集めて持っていました。いまはない。どうしたか記憶がはっきりしない。
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西村 | 焼夷弾の中に、石油と一緒に入れた小さい爆弾がありましたよね。油脂焼夷弾というやつです。
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谷 | 投下されたら油が広がって火災が大きくなる油脂焼夷弾というのがありました。一発ごとに、バーッと火がついた油が飛ぶ物です。紙と木で作られた日本の家々を焼くのは簡単でした。
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西村 | 簡単ですね。焼夷弾に小型焼夷弾が60発入った容器がパーンと割れる音がするんですよ。その音がすると雨が降っているように焼夷弾がザーッと落ちてきました。
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谷 | そうでしたね。ぼくも焼夷弾が空から降ってくるのを見ました。
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