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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




はいはい。今の小学6年生の70年前に太平洋戦争は日本が負けて終わった。では、ぼくらが6年生の時の70年前は何があったかと調べて改めて驚きました。

明治8年(1875年)です。これは日露戦争(1904年)よりずっと前で、征韓論によって政府とたもとを分かった西郷隆盛らが西南戦争(1877年)で大久保利通らと戦う前ですよ。それぐらい昔のことです。だから、今の子どもたちにとって70年前は遠い昔です。「日本とアメリカが戦争したんですか?」って聞いたあきれた代議士がいるってほどだから。

西村70年って、歴史のかなたなんですよね。

戦後は、おやじの消息はわからないし、食糧事情があまりにも悪いので、自分の家族を山口に疎開させていたおふくろの兄が、茨城県の勝田にいて、サツマイモが食べられるからとぼくらの家族を呼び寄せてくれましてね。

ぼくが6年生の3学期に母子4人で京都から転居。勝田で小学校を卒業し、昭和21年に旧制の水戸中学に入学しました。勝田から水戸まで汽車通学をしていて、家から駅まで2㎞、汽車を降りてから6㎞、片道8㎞、往復で毎日16㎞、4里ですよ、歩いて通いました。毎日イモだけの食事でね。でも食べることが出来て夢のようでした。

戦後の大混乱の時でも、汽車のダイヤは正確で時間通りでした。これは見事でしたね。人を運ぶ列車なのにあまり客車がなく、貨車、それも無蓋車も多く連結されていて乗りました。

蒸気機関車でしたが、機関車にも乗って燃料の石炭を放り込むカマ焚きの後ろで邪魔にならないように突っ立っていたりね。機関車の前にも乗り、いまの鉄道ファンにはうらやましい体験でした。客車の屋根にもいっぱい人が乗ってましたね。

西村そうそう、貨物列車だったね。荷物乗せた貨車にもたくさん人が乗りましたよね。

高校2年生の昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が始まった。南北朝鮮(韓国と朝鮮民主主義人民共和国)の戦争にアメリカと中国がそれぞれの側につき激戦、日本は他国の戦争での軍需景気で経済が上向きになった。そこから日本の復興、経済の高度成長へとつながっていく。やっとまともな食事が再び出来るようになってきました。




金偏景気で生活向上 復興進む


西村ああ、金偏景気(かねへんけいき)ね。開戦2年後にはGHQ(日本を占領した連合国軍総司令部)の覚書というより命令で日本は兵器や砲弾など軍需物資を作ってたね。米軍用に。戦争中の日本の技術力をアメリカは知っていたから。軍用車両の修理も。

今までいろいろな戦争体験の出版物が出ていますが、子どもの目線から語られた戦争体験談は少ないと思います。だからこそ全国で当時、戦争を体験したごく普通の子どもたちの記録を現代の子どもたちに残して伝えていきたいというのが今度の企画です。

戦争は今の生活が完全に壊されるんです。完全に。特別なテロ事件は別として、70年間、戦争、戦場で日本人が誰も殺さない、殺されていないというのは一種の無手勝流だと思いますよ。知恵で勝つというか、それで70年間やってきたんです。

西村そうですね。戦時中に大阪中が一面焼け野原になりました。ものすごい熱さにさらされて、大阪からわが家の方面に流れている五十鈴川にみんな逃げ込みました。ところが川の水は沸騰するぐらい熱かった。川の中に死体が重なりあっているのを、見慣れてしまうくらいたくさん見ました。

ああ。




艦載機の操縦士の顔が見えた


西村いまでも忘れられませんが、近所の浜辺に溶鉱炉があってそこで働いている人たちをめがけて、米軍の艦載機がダダダダダッて空から銃撃してきた時、操縦しているアメリカ兵の顔がはっきり見えたんです。その艦載機の1機が操縦を誤って海に落ちて、操縦士がとっさに潮風に乗って落下傘で地上に降りたんです。

国道26号線の所で捕まえられましてね。目隠しされたままトラックに乗せられました。大阪市内の軍隊の施設に連れて行かれたようです。その一部始終を見ていた人たちは多かったけど、敵だからって石を投げたりする人は誰もいなかったね。

ぼくも疎開先の京都で敵機の操縦士の顔を見ましたよ。比叡山の東側の坂本に陸軍の飛行場があったので、そこをめがけてアメリカの艦載機がやって来た。敗戦の年の5月か6月ごろになると聞い半島のすぐ沖にアメリカの空母を含む機動部隊が来ていました。日本は制海権も制空権も失っていましたから、空母から発進した艦載機が来るんです。京都側から編隊でワーッと比叡山の上空まで昇って、ガーッと琵琶湖側へ急降下する。

やがて爆弾を落とした音が反響してダダダーンと爆発音が聞こえてね。戦後にわかったことですが、アメリカは京都は古都を保存するため爆撃しない方針を決めていたので、艦載機は帰路、ひるがえって京都上空は超低空で飛んで地上に向かってダダダッと銃撃していきました。

下にいたぼくら子どもたちは、クモの子を散らすように一目散に麦畑に飛び込んで逃げた。ぼくは麦畑に隠れながら操縦士の顔を見ましたよ。その時、縁側で勉強していた同級生の子に直撃弾が当たって死にました。

西村ああ…。

あれから70年経った今、戦争の形が変わってしまっていますよね。IT技術の発達で、いまはすべてが電子ゲームのように地上、艦上、機上から猛烈な早さで操作して攻撃する。爆弾や銃撃でなくミサイルだし、攻撃側はあまり反撃を受けない形ですね。ある程度空爆して地上戦という形は依然残ってはいますが…。

戦争が国対国、軍対軍、人対人じゃなくなってきている。戦争の質も全く変わってきていて、民族、宗教、文化をめぐる戦いです。中東でも国境線に関係なくゲリラやテロの形に正規軍が翻弄される異質な事になってきていますよね。

この70年間、日本は戦争で一人も殺さない、殺されていない。これは大変な歴史だと思います。これからは情報を十分に集めて慎重な判断で国家の国際的なかかわり方を決めていかないと他国を舞台にした変質した戦争、紛争に巻き込まれる恐れがある。


つづきを読む> Part7 戦争しちゃアカン!