西村 | うちの兄貴がね、親にだまって予科練(海軍飛行予科練習生)を受けたら、承諾書が来たんです。
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谷 | ほう。
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西村 | その承諾書が配達された時に、おふくろがそれを知って裏の井戸のわきですすり泣いていた姿を覚えていますね。長男だったしね。
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谷 | ああ、でお兄さんは予科練に行かれたんですか?
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西村 | いや、まもなく終戦になったから行かなかった。
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谷 | ああ、それはよかった。
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西村 | 当時の16、17歳くらいの青年たちは、自ら志願して戦争に行っていたと記憶している。今、学徒動員の映っている映像を見ていて、「戦争に行かされた」という表現があるのには、違和感があります。ぼくの記憶では近所や周りの人も「おれは戦争に行くんだ」という気持ちで戦地に行っていたと思う。
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谷 | うーん。
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西村 | 今、平和な時代になって、やっと世の中を見通せるようになってから、あの戦争はいけないこと、戦争へ行かなかった自分が正しかった、みたいなことが当たり前のような話になっています。いつも思うんですが、そういう切り口だけで報道すると、当時の事実とずれますね。
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谷 | 当時の国民の実態とは、たしかに違いますね。当時のぼくの住まいは借家でしたが、向かいに大きな庭のある家があって、そこの長男が何回徴兵検査を受けても「丙」なんですよ。「丙種」、不適格です。
そうすると近所から、「お国の為に役に立たない奴だ」って後ろ指さされて「あのうちには、あんな男しかおらん」って大人たちが言っていたのを覚えています。 |
西村 | そう、そうなんだよね。「甲・乙・丙・丁・・」ってあってね。それはね、ぼくが青年になってからも、もし甲をもらうには、体重が16貫(約60㎏)なかったら不合格だって思いはあった。
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谷 | ちょうどお米一俵の重さですね。
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西村 | そう。でもぼくは16貫無かったんです。だから、いつもお風呂に入る時には体重を計って「16貫なければ甲をもらって兵隊さんになれない」って、もう青年になってからですよ、心配に思って。今でも遺伝子のように「16貫」という数が体に染み付いています。
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谷 | そうですね。当時の子どもたちはみんな軍人になることが普通のように考えていた。むしろ夢だった。西村さんは、海軍か陸軍どっちにいくつもりでした?
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西村 | うちのおやじはね、海軍だったの。軍艦にも乗ったりしてね。
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谷 | ほう、そうですか。お兄さんも海軍予科練でしたしね。ぼくの親戚には、陸大(陸軍大学校)を出た陸軍将校がいたんです。戦後に知ったのですが、陸大でロシア語を勉強して、図書館で原文でマルクスの資本論も読んで対ソ連戦略の要員でした。
陸軍の将校なので軍刀を腰に下げているんです。小さなぼくから見た親戚のこのお兄さんは将校マントを着て、長靴をはいてものすごくかっこいい。一緒に街を歩いていると、すれ違う兵隊さんのだれもが将校のお兄さんに向かって直立不動で敬礼するんです。「身長が伸びていつ軍刀の高さを越えるかな」って、ぼくは周りから言われて育ちました。 |
西村 | そうだったね、将校は。
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谷 | 軍刀の他にピストルも持っていて、本当にかっこ良かったな。別の親戚のお兄さんは、兵隊ではなかったけれど上海で病死して、遺骨を載せた帰りの船が東シナ海で撃沈されて遺骨すらないので、ぼくは海軍は軍艦だけど船だから行くのは嫌だなと思ってました。
海軍の、とくに海兵(海軍兵学校)の制服に短剣がかっこよかったから、海軍志望が多かったけれど。おふくろの弟も陸軍将校で、戦後、アリューシャン列島から復員しましたが、陸軍がぼくの周りにいたので、ぼくは陸軍に行こうと思っていました。 |
西村 | そう。「軍人になろう」って強く思わなくても、自然と兵隊さんになるんだって思っていましたよね。
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谷 | そういう感じでしたね。
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西村 | 小学2年生の時に、アッツ島の山崎大佐らの日本軍が玉砕したんです。それを聞いた担任の女の先生が、みんなを立たせて黙祷して泣いてましたね。そういう時代でした……。
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谷 | そうですね。出征兵士を送る時の家族はやっぱり表面的には元気を装ってじっと耐えていますけど、息子が戦地に行ってしまうから、今考えるととくにお母さんがかわいそうだったと思いますね。
息子は生きて帰ってくるどうかもわからないし。ぼくは子どもだったから、ただワーッと応援していましたけど。 |
西村 | そう、お母さんはかわいそうだったね。
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英霊を神社わきに整列して迎える
谷 | そのうち戦局が変わってきて、大本営の発表が負けばっかりになってきたころから、英霊(戦場で亡くなった兵士の遺骨)が西宮にも戻って来ました。生徒は全員で西宮戎の塀に沿って整列してお迎えするのです。親族の胸に抱かれる英霊に最敬礼しました。遺骨となって帰ってきた地元の兵隊さんたちをそうして何回も、何回も迎えました。
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西村 | うん。
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谷 | あのころの学校での勉強といっても、すぐ空襲警報や警戒警報が鳴るので、落ち着いて勉強できなかったな。警戒警報で途中で帰ったりね。でも配給の昼食用のコッペパンひとつがどうしても欲しくて、サイレンが鳴っても出来るだけ学校へ走って寄った。
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西村 | うんうん。みんな団体登校、団体下校をしていて、その間に教室で一番練習したのは、机の下にもぐって、両耳を手でふさいで目をつむって体を小さく丸める訓練です。今でもできますよね。
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谷 | バッと、とっさに机の下にもぐったりね。それから戦時教育があって、木製の和音だけみたいなハーモニカを使って、敵の潜水艦のスクリューの音を聞き分けるために正確な音階を聞き分ける練習をだいぶ厳しく受けましたね。
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西村 | そうそう。あったね。敵の飛行機と軍艦をシルエットで見分けるっていう勉強もあったな。先生が指し示す絵を見ながら「それはアメリカ軍の○○であります」って答えたり、ずいぶん覚えましたよ。
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歴代天皇の名を記憶して校長室で暗誦
谷 | ああ、覚えました。一番強烈だったのは小学校5年生の時に、一人ひとり校長室に入って、校長先生の前に直立不動で、歴代の天皇の名前を全部暗唱するテストがありました。「神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安……大正、今上」って全部ね。
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西村 | 当時の小学生の高学年は本当に全部言えたんだよね。
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谷 | 一人ひとり全員が、歴代天皇の名前を覚えていました……124代もね。いまは38代ぐらいまでしか言えませんが、大人になってもスラスラ言えてました。そんな時代ですよ。
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西村 | そうでしたね。
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谷 | それから、疎開してからは服も下着類も替えがほとんどなかったな。靴もないから、稲わらでわらじを編むことを教えてもらい、自分で履くわらじをずっと作っていました。あの技も忘れちゃって惜しい。
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西村 | 思い返してみれば、アメリカ軍に日本の地名がわからないように「大坂」は「浪速」、「神戸」は「摂津」と昔の呼び名に変えて「只今、摂津上空を北上中であります」と放送していたけど、あれは全部アメリカ軍には気づかれていたんですよね。
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谷 | そう、みんな知られていましたね。軍の暗号までも解読されていたのですから。
それと隣近所の隣組の繋がりが強かったですよね。例えば灯火管制で、夜はどこの家も電気の傘には黒い布を被せて灯りが漏れないようにしていましたが、当番制で呼びかけ合ったり、消火訓練や、配給の差配などをやっていました。隣組の長が良い人ならまとまりが良いのですが、軍国主義が強い人だと大変だったでしょうね。 |
西村 | ええ、でも当時はみんな軍国主義でしたよ。
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谷 | 確かにそろって軍国主義だった。「出て来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」なんて歌ってました。二人とも出て来た。こっちが地獄へ、になっちゃった。
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西村 | 現代で一番欠けているのは、隣組の人情や近所付き合いが無くなってきたことだね。
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谷 | ああ、いまは核家族化してマンションではなかなか難しいですね。
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西村 | 『とんとんとんからりと隣組』って歌(曲名:「隣組」、作詞:岡本一平、作曲:飯田信夫、唄:徳山璉)があるけど、「格子 を開ければ 顔なじみ 廻して頂戴 回覧板」ってね。
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谷 | はいはい。隣組では大人たちが自分の家の子どもだけじゃなくて、よその家の子も分け隔てなく面倒を見ていました。よく、よその家のお父さんに叱られたり、褒められたり、一緒に遊んでもらって大喜びしたりね。そういう心の通った近所付き合いがありました。
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西村 | あったね。戦後平和で70年が過ぎました。ぼくの考えですが、関ヶ原の合戦(1600年)で徳川方が勝利して、さらに大阪夏の陣(1620年)で豊臣家が滅び徳川家康が国内を平定する。それから70年というと5代将軍綱吉のころで、世の中は元禄時以来いろんな文化・娯楽が生まれて大いに栄えたが、「動物愛護の行き過ぎの生類憐れみの令」という悪法も出るなど一種の平和ボケでもあった。
さらに20年余りも過ぎると吉宗が享保の改革(1716年)で世の中を引き締めねばならなかった。戦争もなく平和で70年も過ぎると人間は変わってしまうものなのかなと最近思っている。 |
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