谷 | 食べ物は西村さんの場合、割りといい状況だったようですが、疎開前の西宮に話を戻すと、おやじが南方に行ったままいなかったぼくの家族は、あらゆる食べ物が配給制の中で、米はずっと前から来ない。麦もなくなり、大豆の油をしぼった大豆カスが配給されました。
栄養のバランスどころではありません。おからの配給ですら特別で、豆腐屋に並んで食券と引き換えに受け取りました。その日はごちそうです。 |
西村 | おからは良い物だったね。
|
谷 | 海が近かったから釣りに行って、浜辺からの投げ釣りでミミズを餌にカレイを釣ったり、西宮港の岸壁から袋をかき回して底にたまった小さなエビのようなアミを取ったりしました。これが蛋白源です。
肉類などまったく無かった。野菜もまったくないので、あちこちの野面や土手で、ハコベ、ツクシも採りました。畑のサツマイモを収穫したあとのイモのツルなども取って食べました。 |
西村 | イモのツルはまったくおいしくなかったね。
|
谷 | 縁故疎開した先では、おふくろが近くの農家へ行って、持っていた反物や帯、帯留めも片っ端から食料と物々交換をしていました。
あれが長く続いたら本当におふくろは裸になってしまうなと思いましたよ。でも物々交換をしないと、食べるものが無かった。 |
西村 | ああ。
|
谷 | 疎開の前、ぼくは少し勉強ができたから、仲良しの在日の家の友だちに勉強を教える代わりに、配給されても吸う人がいないタバコの葉と大豆を物々交換してもらいに彼の家に何度か行きましたね。
おやじがいなくて、小学6年生のぼくが家長でした。おふくろは、ぼくと2つ違いの弟と2歳の赤ちゃんの妹の子守りもあったので、ぼくは主食や野菜を田舎に買い出しに行く近所の大人について行って、芋とかを担いで帰ってきましたよ。でも赤ちゃんがいたので脱脂粉乳は配給されていました。 |
西村 | え? 戦後に配給されたんですよね?
|
谷 | いや、戦争中に円筒形の箱だったと思いますがありましたよ。配給だったと思いますが・・。宝塚に一時商事勤めの伯父がいたので、そこからだったのかなあ。
|
西村 | へえ。「ララ物資」(LARA ; Licensed Agencies for Relief in Asia)か「MSA物資」(Mutual Security Act)かと思いました。それは終戦後ですが…。
|
谷 | お菓子が無かった当時、脱脂粉乳はおいしくて、ぼくは妹に溶かしたミルクをあげながらパクっとつまみ食いしていました。それをおふくろに見つかってものすごく叱られましたよ(笑)。
|
西村 | 脱脂粉乳はおいしかった。新聞紙に包んでポケットに入れていました。あれはごちそうだったな。
|
谷 | 妹に大きくなってからその話をしたら、「そうか、おにいちゃまのせいで、ペチャパイになったのね」って。大笑い。あ、最後に残ったお菓子は、バナナを乾燥させた干しバナナでしたね。
|
西村 | ああ、懐かしいねぇ、あったあった。
|
谷 | あの食べ物がない戦争中に最後のお菓子だった干しバナナが、いまはお店できれいなパッケージに包まれて売られていると、なんかしゃくににさわるんですよ。すまし顔みたいで。あのころ、たぶん台湾から輸入されていたんでしょうね。
|
西村 | 谷さんが小学生の時には、キャラメルの配給ありましたよね? 月に一回ぐらい。 |
恵まれた食が消えていく辛さ
谷 | そうそう、キャラメルもあった。戦前の小学校前から開戦後も低学年のころの食事は、阪神間のサラリーマン家庭ですから恵まれていて、モロゾフのチョコレートもあったし、いつも行くパン屋さんのパンとチーズも食べていました。すき焼きもしょっちゅうで、おやじとおふくろが2人でビール一本空けていました。けっこう洒落た食事でしたよ。
外食は一家そろって神戸に中華料理を食べに行ったりね。それが戦争で、あの恵まれた食卓から、どんどん食べる物が無くなって、消えていくのは悲劇でしたね。日常的にずーっと食べていた物がどんどん食べられなくなっていってイモのツルまでになったのですから。 |
西村 | 戦後はとくにひどかったね。戦後になってマル公食品(物価統制令による公定価格)が出てあの印が無ければ、商売できなかったわけですよね。あのころから食糧が無くなりましたね。 |
進駐軍の戦時のディナー見て負けを納得
谷 | うん、本当に戦後は何にも無い。戦時中、西村さんのような商売をやっている家は物があったかもしれないけど、ぼくらの周りはけっこう早いころから何にも無くなった。町内会で一軒だけ軍の御用達の商売をしている人がいて、子どもたちを特別に招いて食事を食べさせてくれたんですね。でも、そんな家はとても珍しかった。
戦後は、日本がアメリカに占領されて進駐軍がやって来たら、BreakfastとかLunch、Dinnerというパックになっている米軍の弁当を配給でもらったんです。 |
西村 | そうそう。弁当を進駐軍が持ってきたね。それを一つもらって中をみたら、デザートにタバコ2本まで入っていた。
|
谷 | うんうん、タバコまでね。
|
西村 | あの、弁当に入っていたオレンジ色のチーズの味も忘れられなくて、後に漫画描いている時、各社の担当者に「探して」と頼んだことがありました。こういう物を戦争中に兵隊が食べている国と戦争したらアカン!って思いましたね。
|
谷 | 同じこと思った。地区によって違ったかと思うけど、ぼくらのもらったパックの弁当は水にも強いロウ紙張りになっていた。中身は素晴らしく豪勢なものだった。Dinnerの箱にはビーフジャーキーもばっちり入っていて、こんな豊かな食事を兵隊一人ひとりに配って戦っている国と戦争したんじゃ勝つわけが無いなと思いましたよ。
|
西村 | そうそう。あの豪華な弁当を見て、こりゃ負けるわと思った。
|
谷 | 後で知ったことですが、機関銃は別として日本兵の銃は向いた方向にただまっすぐに撃つしかできないが、アメリカ兵の持つ銃はどの方向にいる敵でもダーッと腰だめの連射でなぎたおせる。これは勝てるわけがないと思いましたね。
当時、西村さんはゆくゆくは海軍か陸軍か、どっちに進もうという気持ちでしたか? |
Copyright © NPOhouzinkokoyomi 2015
企画:谷久光、吉原佐紀子(NPO法人ここよみ代表)
協力:西村宗(題字イラスト他)
編集部:赤石美穂、榎本文子、外山緑
デザイン:大谷デザイン事務所
コーディング:電脳工房