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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




はい、死ぬかと思いました。編隊まで仰角で45度ぐらいの角度のとき爆弾と焼夷弾が束になって、ダァーッと一緒に落ちてくるのを目撃しました。急いで防空壕へ飛び込んだら、とたんに周りの木々がざわざわと揺れ、地面から砂塵がザーッと巻き上がり、ドッカーンと大地が地震みたいに揺れました。防空壕の入り口から、ぼくらが住んでいるすぐ近い家並みが真っ赤になってゴーゴーと炎をあげて燃えているのが見える。近くの白壁が反射で真っ赤に染まっていました。

「ここにいたら蒸し焼きになって死ぬ」と思って、みんなで防空壕から国道の方へと逃げて行った。途中、夙川の松林に焼夷弾が落ちたのでしょう、松林が横一本の火炎になって、ゴォーッと燃えているのが見えた。松ヤニで炎がいっぺんに燃え広がったのでしょう。

西村ああ。やっぱり、上空のB29の位置からそういうことに。

振り返ってみれば、あの時に、敵が爆弾を落とすボタンを押す時間がちょっと違っていたら、家族やそこにいた全員みんな爆弾の直撃を受けていたと思いますね。本当に100メートルもない先が燃えているのです。

ぼくが住んでいた家も、落ちた爆弾の破片が飛び上がって2階の屋根を突き抜け半壊しました。たまたま隣組のみんなが生き残りましたが、同じ学校の生徒は何人か亡くなっています。阪神電車の線路沿いの両側がだいぶ被害にあいました。ぼくの住まいから阪神電車までの間の同級生や友達がたくさん住む地区も完全に燃えてしまいました。

友人の一人はその日、焼け跡で会ったら、家がなくなったのに、飼っていた「ニワトリがみんな死んでしまった」とベソをかいていました。

爆撃で家々が燃え上がった直後から、『黒い雨』(井伏鱒二著)に書かれている原爆の時と同じような黒い雨が、ザーッと降ってきてみんな濡れました。 ぼくの話、このままちょっと続けて、いいですか?

西村どうぞ。

ぼくらは阪神電車よりも海側の建石国民学校だったんですが、疎開する前の校舎の半分を陸軍の暁部隊が接収して兵舎にしたんです。当時「小国民」と子どものことを誇らしげに言っていましたが、軍は子どもを大事にすることなど全く考えていなかったと思います。

西村そうですね。



疎開先の分散教室でも「鬼畜米英」


その後、京都に縁故疎開して、転校先は修学院離宮に近い修学院国民学校でした。ところがその校舎も、軍の物資を隠すために接収されました。ですから皆、別れ別れにいくつかの分校に行くことになって、神社やお寺に分散しました。僕は八瀬に近い山腹の神社の分校に通っていました。

「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」「一億総決起」「撃ちてし止まん」などの戦勝標語が書いたり貼られた仮分校で、先生は「いまは非常時だ。神国日本は必ず勝つ」と言っていました。

ところが敗戦になったとたんに、先生は「アメリカさん」とか「アメリカの民主主義」などとコロッと態度を変えて言い出しました。それは子ども心にも、何だ信用できないなという感情を生じさせましたね。後で振り返ってのことですがね。

西村本当にそうですね。広島、長崎が被曝した後、ぼくは先生から「原子爆弾が落ちたら、白いハンカチを顔にかぶせるように、白は反射率がいいから」って教わったんです。その後、尼崎の工場地帯の石油タンクかガスタンクをアメリカの爆弾が直撃して、目の前で爆発したのを2人の姉と初めて見て、先生に教わった通りに姉たちとハンカチで顔を覆いました。体を守るには全く無意味なことなのに。原爆じゃなくタンクの爆発でしたが。

とくに恐ろしかった思い出は、夜の空襲は木造民家を焼き尽くす焼夷弾中心で、昼間の空襲は家を完全に破壊する爆弾が落ちてくるんです。昼間の空襲はとっても恐かったです。遠い所に爆弾が落ちても、地震と同じように地面がガタガタガタガタ揺れるのです。本当に恐かったです。昼間の空襲は本当に恐かったですね。爆弾は嫌だった。

本当に恐かった。あの時は本当に死ぬかと思った。

西村婦人たちがバケツで水を運んで防火訓練する時に聞いた話ですが、焼夷弾でも屋根に落ちると床の下まで突き抜けていくと聞いたんです。上空から落ちてくるから。それを聞いて、子ども心に消火訓練する意味なんてあるのかなと思いましたけど、ただ楽しく見ていました。


つづきを読む> Part4 配給の食料も尽きる