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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。

もくじ




西村谷さんから、日本が戦争に敗れた昭和20年(1945年)8月15日の玉音放送(昭和天皇が日本が戦争に負けたことを初めての肉声で国民に伝えた放送)のことなど、覚えていますか?とのことでした。ぼくは小学校3年生、夏休みでしたよね。あのころ、いいラジオは真空管が5個入ったもので、それを持っている家はそうたくさんはなかったんですが、うちには幸いあったので、割にはっきりと玉音放送を聞くことができました。

でも何を言っているのか、まだ理解できなかったんでしょうかね。そんな一生懸命聞いていなかった、というのが本当ですね。

ところが、すぐリアクションがありましてね。うちの隣に住んでいた隣組の組長をしていた人がすぐに自転車に乗って、メガフォンでもって「今の放送は、デマであります」「だまされてはいけません、みなさん。ニッポンは戦争に負けておりません」そういって回っていたのは、はっきり覚えております。

ほう。

西村紀州街道という街道があるんですね。それを大阪の方から和歌山の方へ向かって、自転車に乗ってわーっといっていたのは覚えていますね。まあ、あの人も一生懸命だったんだろうな。

それを聞いて、ま、子どもですから、あ、これで戦争終わった、これでほっとした、っていうふうなことはまだ考えられなかったですね。

よく雑誌やテレビなどで、「私はこの戦争はいけない方向に向かっていると感じました」ということを、よく書いたり話している人がいるんですよ。その人の歳をみると、ぼくより5つ若い、こりゃ、もう天才じゃないかと……

はっはっ・・・

西村ぼくは9歳のときに、まだわけがわからなかったのだから。それは、あとで感じたことではないかと思うんですよ。ま、そういう類いのものは、たくさん出ていますよ。

実際にね、西村さんも聞かれた玉音放送は、ぼくも聞きました。ぼくは縁故疎開で、京都の比叡山の麓の八瀬に近いところに知っている農家があって、そこの2階で。やっぱり夏の暑い日に。

ぼくとおふくろと、二つ下の弟とまだ2歳の妹もいたんだ。とにかく一家四人がそこにいた。おふくろのいったことは、はっきり、覚えているんです。で、おふくろの第一声。「これで、お父さんが帰っていらっしゃる」……だったんだ。南方へ行っていましたから。生死もわかりませんでしたが。

西村ああ、そう言いましたか。

それは、はっきりと刻み込まれている。おやじは、ぼくが5年生のときの6月だったかなあ、行き先はジャワ(現インドネシア)なんですが。

日米両軍の最前線より南でしたから、直接的には戦争のひどいめには遭わなかったんだけれど、途中からは音信不通になっていて、生死もわからないまま敗戦になった。

それで第一声が、それだった。だから、日本国が負けたとか、そういう受け取り方ではなくて、この三人の子どもをかかえてこの何年か大変だったのが、やっと終わった、という気持ちの吐露だったと、後になって思うんですよね。

西村はい。それはわかります。

昭和天皇の玉音放送は子どもが理解できるような内容ではなかったから、よくわからなかったけれど戦争に負けたんだ、ということは6年生だったから、わかりました。

史実としては、玉音を収録したレコードを陸軍の一部が放送させまいと奪い取ろうとしたんですよね。一部の兵隊が宮中にまで侵入して。それぐらい日本の国内は、いま西村さんが隣組の組長さんが「デマだぞ」と言った、そのような雰囲気にはあったと思います。

西村ええ、そうでしたね。



81歳から76歳、私たちは最後の記憶世代


で、本題なんですが。

戦後70年という言葉が今年はあふれているわけです。だけど、ここにおられるお父さんお母さんをふくめて、戦後の「戦」も「後」も実感としてはわかない。だから「70年」の意味もよくわからないと思います。マスコミがさまざまな戦後70年企画を次々にして、いったい誰に向かっていっているんだろうか、とふと思うんですよね。私たち2人は子どもの時のことなんですが。戦後70年、70年と、一人歩きしているみたいで。

西村ええ、はいはい。

あの戦争で日本人は国の内外で310万人くらい死んでいますから、頭で理解出来ないほど大変なことだった。いろんな戦記ものはいままでにいっぱい出ていますよね。なかでも大学生まで戦場に送った学徒動員の戦没者手記「きけ わだつみのこえ」などは皆さんもあるいはご存じかと思います。あるいは広島、長崎での原爆被曝の惨状なども・・・そのあたり歴史としては知っていても身近には感じられないのが当然だと思うんです。

ぼくが書いた「二つのランドセル」の作文(→読む「二つのランドセル」画面へ)を、子育てに関する出版社の編集者で育児の現場グループ活動を主宰している、このトークの企画者でもある吉原佐紀子さんが読んで、はっと気づいたんです。ここの、父母の皆さんが知らないことだから、子育て支援の場で開催されたセミナーのアトラクションで朗読してください、って私にリクエストがあり、作品の状況説明をするトークをしたわけです。

ぼくは、戦争中のことを強烈に覚えているのは西村さんも言われたように、ぎりぎり当時国民学校(小学校)6年生から1年生くらいまでだろうと思います。すると、いま81歳から76歳までまでの人たちなんですよね。最後の記憶世代のぼくらが、戦争体験をまとめて、伝えていかなければならない、それをやろう、と思ったんですね。

直後にあった日本記者クラブの勉強会で社会学者の見田宗助さん(東大名誉教授)が、戦争体験に触れて「私は(敗戦の時)国民学校2年生だった。ぼくらが、戦争を覚えている最後の世代だ」と語ったんですね。それを聞いて、ぼくは「あ、やっぱりやろう」と思ったんですね。

そうしたら、最初のきっかけを作った吉原さんが、また「誰を対象にするんですか」と言うわけ。ぼくは、最初、聞かれている意味がわからなくて、出せば読んでくれる人が読んでくれればいいと思っていたんですが、たしかに、それは核心をついた指摘でね。

それは、今の小学生に、そしてそのお父さんお母さんを対象にして読んでもらおう、ということでした。そうするとなるほど、最終の記憶世代が書き、その内容を理解できる最長レンジのことろの世代に伝えていくことになる、とわかったんです。このことを朝日小学生新聞のデスクと話したら、そういう視点はなかった、一緒にできることを前向きに考えてみます、というとてもいい答えをもらいました。

(その後、担当の記者が決まり、朝日小学生新聞に私のインタビュー記事が紹介されることになりました)



当時の子らの戦争体験作文を募集中


ぼくとしてはまずはブログを立ち上げて、800文字から1600文字くらいまでの作文を募集することにしました。ぼくの小学生時代の同級生や、ぼくが先生をしている港区シルバー人材センターの文章サロンなどでこれを話しますと、すぐに「書きます」とか「高齢の知人に話してみます」など、みなさんいい感じで受け止めてくれるんです。こういう記録ものが今までほとんどなかった気がする。なんでなかったのかな。

西村 昭和万葉集というのがあります。けれども、ぼくが買いたい、読みたい巻がないんです。昭和16年12月8日あたりから終戦後まで数巻出ているのに、どこを探してもない。売れているんですよ。なぜかというと、ひとつは回顧趣味。

でも、実は学校の先生が買っているようだ。それでどうするのかというと、「日本は、ばかな戦争をした」ということを、歌集にある生の声で生徒に伝える材料として使っているんじゃないかな。いずれにしても、この数冊がないというのはひとつの社会現象ですね。昭和16年前後から23~24年ころまでのがないんです。ほかの年代の巻は、売れていない。

ほーう。その売れているという巻には、小学生が書いたものはないでしょう?

西村それは、ない。もう少し上は学徒動員で戦場へ行ったからね。その人たちの書いたものが、これまでの最終世代なんでしょうね。

ぼくも谷さんと同じように、戦争中と戦後の子どものころのこと、よく覚えているんです。でもぼくの場合は、さっきの隣組長さんの自転車とスピーカーみたいに、映像としてはっきりと覚えている。もっとも、あれは戦争が始まったときの臨時ニュースかな「西太平洋において……」というのは、もっと小さかったがかすかに覚えていますね。

ぼくは小学校2年生でしたが、昭和16年12月8日の朝の臨時ニュースは覚えています。「帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」。子供だったけど何度も繰り返していたので覚えちゃった。

西村覚えてはいるんですよ。だけど、ぼくはこれで戦争が始まったという感覚は、まったくなかった。

親父が19年の6月ごろ、戦争がこれからひどくなっていく時に仕事で南方に行ってしまった。残された家族4人が住む西宮もじわじわと空襲が増えてくるわけですよ。西村さんも大阪で?

西村大阪のど真ん中のちょっと南の、堺の方向…

とにかくラジオは今のNHK(日本放送協会)しかなくて、だんだん戦局が悪くなってくるとニュースと空襲の警報しかやらない。娯楽番組なんて、もちろん何にもやらなかったですね。とくに最後のころはね。

西村ああ、そうだったっけ。

追い込まれる前は、ニュースの前に前線で日本軍に戦果があがった時は、軍艦マーチを鳴らす。と、日本軍がここでこれだけの戦果を上げたというのをいう。でも、だんだん追いつめられて負け戦になってきますよね。その負け戦を報道しなければならない、しかも戦死者が多く出ている、という状況になると冒頭に「海ゆかば」を鳴らすんです。そうすると、ニュースを聞く前から、「あ、日本はひどい目に遭っているんだな」とわかる。

それでも「わが方の損害は軽微」と言っていた記憶がある。ニュースは定時にありましたが、20年に入ってから、戦争が一段とひどくなってからは、黙っているラジオからいきなり、「ブゥーッ」とブザーが鳴る。それが空襲に襲われる前の警報なんです。一般的には、まず警戒警報から始まり空襲警報へと切り替わってくる。そのつど町中にサイレンも鳴り渡ります。夜中にもラジオは枕元でつけっぱなしなんですが、その「ブゥーッ」という警報とサイレンで飛び起きるんです。

つづきを読む> Part2 恐ろしかったB29の大編隊

西村 宗(にしむら・そう)プロフィール

1936年大阪府泉大津市生まれ。62年明治大学農学部農産製造学科卒。7年間のサラリーマンを経て漫画家。

69年「われらサラリーマン党」(夕刊フジ)。72年札幌冬季五輪で「スッテンコロリン」(朝日新聞)。
80年「サラリ君」(産経新聞)。他に「アッサリ君」(週刊読売)、「丸でサイエンス」(夕刊フジ)、「サラリ君の青春期」(産経新聞)、「ステージ」(正論・連載中)、「バイオ博士のビックリ研究室」(朝日学生新聞)。
85年「サラリ君」と「ワン漫時評」(朝日新聞)で第31回文芸春秋漫画賞受賞。

2000年「サラリ君」で第20回日本漫画家協会優秀賞受賞。テレビ出演「科学びっくりビジョン」(NHK),「夕刊ワンポイント」(朝日CSテレビ)。著書に「おもろいヤンキーつむじ風」(筑摩書房)「まんが家は科学好き」(朝日出版局)他。


谷 久光(たに・ひさみつ)プロフィール

1934年東京生まれ。57年学習院大学政経学部卒。同年朝日新聞社入社、名古屋スタートで主に社会部畑を歩き、東京社会部次長、名古屋社会部長、東京企画報道室長、企画総務、編集委員などを歴任。

退職後は2003年まで故平山郁夫氏が主宰する(財)文化財保護振興財団専務理事。

著書に「牛肉」「公費天国」「地震警報が出る日」(以上共著)「文化財赤十字の旗」(聞き書き)「朝日新聞の危機と『調査報道』~原発事故取材の失態~」(著)。新聞の連載企画「企業都市」で日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞、同じく「兵器生産の現場」でJCJ 奨励賞を取材班として受賞。

現在、日本記者クラブ会員。