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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 日本が戦争に負けたとき、僕はまだ国民学校に入っていなかった。翌年の入学である。幼かったせいか、戦争の思い出はほとんどない。それでも、いくつか思い出すことがある。僕が生まれ育ったのは静岡県西部の浜名湖のほとりにある三ヶ日という小さな町だった。

 「敵機来襲!」とか「警戒警報発令!」などとメガホンでどなりながら、戦闘帽・国民服にゲートル姿の町内会長の下駄屋のおじさんが駆けてくる。僕らはあわてて家に戻り、じっとおとなしくしていた。物かげから上空を見ると、はるか高い青空に銀色の飛行機の編隊が見えて、みんなが「B29だ」とささやいていた。やがておじさんが「敵機去るー」と告げて回る。僕には「去るー」が「猿」と言っているようでおかしかった。

 そんなある夜、空襲だというので、町外れの鎮守の森までみんなで逃げた。僕は乳母車に乗せられ暗い中を長い坂を下ったことを覚えている。姉たちは徒歩で、弟は母に背負われていたのだろう。父は家に残ったと思う。小さな町だったので、結局空襲されなかったが、近くの浜松・鷲津・豊橋・豊川などの工業都市は空襲や艦砲射撃(かんぽうしゃげき)でひどくやられた。

 家は小さな呉服屋だったが、戦争が激しくなり、物資も統制になって店を閉じた。町なかの住まいで庭もなく、店の土間に穴を掘った防空壕があった。上に板の蓋があったが、空襲されたら何の役にも立たなかっただろう。店は戦後しばらくして再開できた。上の兄は東京で書生をやりながら薬学専門学校に通っていた。理系で長男だったせいか結局兵隊には取られなかった。下の兄は志願して15歳で海軍に入った。台風で洪水の道を膝まで水に浸かりながら出征する兄を見送りに駅まで行ったことを覚えている。しかし、横須賀で1年余りを過ごして終戦になった。もう乗る軍艦がなかったらしい。運が良かった。

 戦後の暮らしはみんな貧しかった。都会で暮らしていた者が、一家であるいは子どもたちだけで疎開していた。近所には「東京」というあだ名の子もいた。すぐ近くの床屋には姉弟がきていた。住宅事情もひどく、父の弟の叔父のふた間しかない小さな家にも、そのひと間に血縁関係のない疎開した母子がいた。兵隊で夫・父を亡くした母子家庭も多かった。助けあって暮らす一方で、みんな貧しく、その日を過ごすのに精一杯でゆとりがなかった。ギスギスいがみあうことも多かった。

 今の子どもは「腹がへった」ことはあっても、「ひもじい」思いをしたことはないだろう。「ひもじい」とは飢えていつもすきっ腹でいることだ。食べ物は足りなかった。我が家でも麦飯にサツマイモの角切りを加えて増量していた。それもせいぜい茶碗に2杯までで腹は満たされなかった。それは自分の家のことで、サツマイモもなくて大根で増量した家もあったという。それでもいなかだったので、まだましだったようだ。都会ではもっともっとひどい家もあったのだろう。

 夢中になって聞いたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、戦争で家族をなくした都会の子どもたちが、みんなで協力して貧しい中にもたくましく生きる話だったように覚えている。  

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