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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 敗戦の1年前の昭和19年、まだ幼稚園に通っていたときの夏に、兵庫県姫路から汽車で約1時間北へ行った寺前村に、神戸から疎開しました。母が小学校時代を過ごしたところです。幼稚園は1学期行っただけで、覚えているのは手で目、耳と鼻を押さえて伏せる空襲に備える訓練と、防空壕を先生や父兄が造って、そこへ逃げ込む練習をしたことくらいです。

 昭和20年に国民学校に入学しました。疎開をしていたので空襲などの戦争そのものは全く知りませんが、日本は追い詰められていて、国家による完全な経済統制で日用雑貨などはほとんど市場には出ていません。母が手縫いで作ったカバンに兄たちの使った古い教科書、着る物も兄たちのお下がりです。家に教科書の無い子どもたちのために、教室には先輩たちの使った教科書が置かれていました。ノートも紙質が悪く、表面は普通ですが裏面はざらざらで、そのうえ、鉛筆が硬くて書くとすぐに破れてしまいます。家にある使用済みの裏面が白い紙を、こよりを使って自分で綴じたノートの方が使いやすかったように覚えています。鉛筆の無い子もいて、先生がちびた鉛筆を用意していました。

 1年生の8月に終戦を迎え、2学期になると教科書に出てくる「ヘイタイサン、ヒノマル、ラッパ」や「バンザイ」などの言葉を墨で消させられました。2年生のときと思いますが、新しい教科書が配られました。それは、タブロイド判くらいで印刷されたのを、各自が切って製本するものでしたが、新しいのでとてもうれしかったのを覚えています。 子どもの読む本もなく、活字に飢えていました。家の書棚から手当たり次第に本を引っ張り出して、意味は分からずとも×××や○○○(伏字・戦時は治安維持法といって、言論・思想統制のために発刊物などに書かれている特定の不適格な表現を×や○に置き換えさせた)がいっぱいある本の中で読めるものを探して読んでいました。あるとき、父が神戸に出た時に買って来てくれた雑誌「ぎんのすず」(戦後の昭和21年発刊)は忘れられません。その後も父が神戸に出て行くたびに、今日は本の土産はあるかなと、どれほど待ち望んだことでしょう。

 着る物は兄たちのお下がりばかりでなく、母が自分の着物を自分で染め直して仕立ててくれるのもありました。素人が染めているので元の模様が透けて見えるところもあり、それを友だちに見つかり、冷やかされるのがとても嫌で悲しかった思い出です。はき物もズックぐつは珍しく、ワラぞうり、下駄など多種多様でした。ズックぐつを持ってはいましたが、雨の日はワラぞうりで通学です。ズックぐつは質が良くないので浸水や型崩れをしました。当然、舗装などされていませんので、かかとの泥が背中から頭のてっぺんまで跳ね上がります。今でも、雨の日の外出がゆううつなのは、このみじめさを思い出すからです。

 改めて敗戦のころを思い出すと、両親は必死になって子どもたちのために苦労をしていたのだと思います。一般市民の生活のためものものすら造れなかった国が、武器を十分に製造するなど無理で敗れました。親たちはこの厳しい状況のなかで知恵を絞り、工夫をして育ててくれたのだと感謝しつつ喜寿を迎えました。

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