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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 雲ひとつない青空に北から南に向かって、巨大なB29が一機飛んで来るのが見えた。いつも見慣れていたB29の編隊よりかなり低い高度。偵察飛行だなと思った。そのB29のまわりを上から下へ、下から上へと宙返りを繰り返しながら、果敢に機銃で攻撃する一機の日本の戦闘機も見えた。間もなく小さな戦闘機は巨きなB29に体当りして、大空に散った。敵機は火を噴くでもなく、何事もなかったかのように南の空へ去って行った。

 これが戦争を目にした最初だった。戦争は国民学校1年生の年に始まった。3年生のとき伊豆の伊東に疎開したが、地元の学校では東京からの疎開組は、毎日陰湿ないじめにあった。疎開組はみな、運動靴で通学していて、下駄やぞうりで通う地元の子たちとの相違が、今にして思うと原因のひとつだったかも知れない。ある日、学校で下駄の配給があるといううので、3年生は全員校庭に整列していた。先生が来て全員を疎開組と地元組とに分け、下駄は地元組の中だけでくじ引きで決められた。

 戦争は伊豆の伊東にも来た。山の中腹にあった我が家は、山腹に沿って急降下しながら伊東の街や、駅や、漁船を銃撃する敵機の風圧に、家中が台風に襲われたようにガタガタと揺れ、今にも窓ガラスが割れるのではないかと思えた。窓から見ていると、前かがみの操縦士の上半身が目の前に見え、飛び去ったあとは、庭に沢山の薬莢(やっきょう)が散らばっていた。

 そんな日が何日も続いていたとき、アメリカ兵の捕虜が東京に護送されるといううわさを聞いて、駅まで自転車で見に行った。鬼畜米英と教えられていたので、鬼のような顔を想像していたが、大きな目隠しをさせられたアメリカ兵の顔は見えなかった。

 空襲はどんどん激しくなっていくのに、ラジオや新聞は、日本はあちこちで戦果をあげていると報道していた。これはおかしいと思ったのだろう。ある日、父はどこからかドイツ製のテレフンケンという短波放送を受信できるラジオを持ってきた。これでウラジオストックのロシア語放送を聞いた父は、ミッドウェー海戦で日本海軍はほとんど全滅したようだと、教えてくれた。それから数日後、3人の特高が土足のまま家に押し入って、テレフンケンと天井に張りめぐらしたアンテナを押収して行った。その日から3日くらい、父は特高の取調べを受けたのだろう、家に戻って来なかった。政府の言うことはウソで、本当のことを隠していると知ったのは、このときが初めてだった。

 戦争が終わると、学校ではいつも朝礼でやっていた「宮城遥拝」(きゅうじょうようはい・皇居の方を向いて最敬礼すること)を取り止め、しばらくすると戦時中から使っていた教科書のあちこちを、墨でぬりつぶすことになった。子ども心にも新しい時代へ移るのを実感した日だった。

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