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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 終戦当時、私は国民学校3年生で9歳の誕生日目前でした。生まれ育ったのは東京都芝区愛宕町、現在の港区西新橋の辺りで、近隣には慈恵医大病院や愛宕神社のある愛宕山があります。

 幼少期はすでに戦争という狂気の時代に突入していて、国民学校にあがった頃には東京の街並みも”平和”なムードは消えてあちこちに防空壕が作られ、強制疎開により建物が壊され見慣れた街並みも変わり、米軍機の飛来により空襲警報が街中に響き渡る恐怖と隣り合わせの毎日でした。

 その中でも最も私の脳裏に鮮明に焼き付いている記憶は、2年の夏に母親の故郷である栃木県の鹿沼に兄と2人子どもだけで疎開したその年、昭和19年の12月に一時的に東京の自宅に戻った時のことです。東京にいた母親が私たちを鹿沼に迎えに来て電車で東京浅草まで行き、そこから地下鉄銀座線に乗り換え新橋まで行く予定でしたが、空襲の影響で神田駅までしか行けず、そこから歩いて自宅に向かうことになりました。駅を降り地下道を歩き始めるとそこには汚れた裸足でさまよい歩く人や、頭から毛布をかぶって横たわる人、けがをして血を流している人たちがあふれ異様な雰囲気の中を親子3人で歩き、やっと地上に出たその時でした。

 道路には一面、爆撃による建物のガラスが飛散して辺りには煙が立ち込め、爆弾投下により出来たであろう大きな穴があり、横たわった馬の死体もありました。あまりに衝撃的な惨状の光景にどこからともなく沸き起こる恐怖と止めようにも止まらない全身の震えは70年経った今でも鮮明に感覚として残っています。そこからどのようにして自宅まで歩いて帰ったのかはっきりは覚えておらず、ただただ母親の手を離さないように必死に握りしめて歩き、家に着くまで震えが止まらなかったことは覚えています。

 東京に戻ってからは家の中も土足で、寝る際も着の身着のままでいつでも避難出来るようにしていました。小規模な空襲はたびたびあり、そのつど防空壕に避難しました。焼夷弾のヒューヒューという音は耳に残り、爆弾が落ちた際の地響きのように身体に伝わる感覚は今も体の記憶として残っています。

 その後もう東京にいるのは危ないと、私と兄は再び鹿沼に疎開することになりました。

 そして昭和20年3月9日、10日の東京大空襲。10万人以上が亡くなった空襲は遠く離れた疎開先の鹿沼からも東京方面の空が赤くなるほど燃え上がる様が目に焼きついています。その後、東京にいる母親から音信は途絶え、祖父母たちは娘は空襲で駄目だったんじゃなかろうかと。それからというもの毎日々々母が帰郷して来るのを待ち、山から駅に電車が着くのを見ては一目散に駆け下りて、降りてくる人を確認していました。でも待ち人は現れず肩を落として家に戻る日々でした。親と離れた幼い子どもにとって何より辛い1日の時間帯は夕暮れ時です。なんともいえない物悲しい気分になるのです。

 でも大空襲から2か月くらいたったある日、本当に母親が帰ってきたのです。その姿に嬉しくて嬉しくて駆け出して母のもとに行って「お母さん」と声をかけたいのに、あまりの感情のたかぶりと今までのいろいろな思いが溢れ出て声が出てこない。自分では出しているつもりなのに。そんな経験は生まれて初めてのことでした。あの日母は、出征が遅れ一時帰宅していた父と共に空襲に見舞われて家は焼け、ふたりで皇居周辺に逃げのびて難を逃れたとのことでした。それからしばらくして父は出征して母は一人で後始末をして鹿沼に来たとのことでした。

 その後、終戦を迎え私たちが東京に戻ったのは2年後のことでした。

 あれから70年経ち、私は4人の子どもの母親になり、6人の孫のおばあちゃんになりました。今思うことは、自分が今の状況であの戦時下だったらどうしただろうかと。3人の息子は戦争に取られ、孫たちも貧困と恐怖にさらされ無事生きのびたであろうか。そう思うと自分の母親があの戦争の時代にどんな思いで私たちを育て守ったのかと母親としての気持ちになります。

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