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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 戦況の見通しから日本側の劣勢はまぬがれず、静岡市への空爆はそう遠くないものと予感していた。そして、ついにその時が来た。昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけて米軍機B29が次々に静岡市に襲来して大空爆を行った。

 私の家族も6月19日深夜、空襲警報のサイレンが鳴り響くと、叔父が「B29が静岡方面に向かっているぞ、今夜は間違いなくこっちに来る、とにかく女衆や子どもは早く先に逃げろ!」との叫びに、母と叔母そして私と弟は着の身着のままで防空頭巾をかぶり、重い荷物を載せた大八車を引きながら安倍川の堤防方面に必死に逃げた。その途中「お母さん、もっと速く走ってよ」とせかしたためか、母は道端に座り込んでしまい動こうとしない。「貴方たちは先に逃げて、私は敵機が見えてからでも大丈夫」と言っている母をなんとか引っ張って安倍川方面に向かった。そのうち、道路は同じように避難してくる人たちの殺到で、安倍川の土手に着いた頃は、すでに避難してきた人たちであふれていた。

 静岡の市街地から始まったB29の無差別爆撃も上空からのレーダーで丸見えなのか、私たちが逃げてきた安倍川の土手にまで投下されるようになった。頭の真上を今にで(トル?)も落ちてきそうな低空飛行している真っ黒なB29の巨体からは、花火のように燃えながらユラユラと雨の様に降ってくる焼夷弾が我々の居る土手の上や目の前を流れている安倍川に着弾した。土手の上では、焼夷弾に被弾されないように落下点を推し量りながら「あっちだ、こっちだ」とさまよいながら右往左往。そのうちに、ゴーンゴーンと耳が引き裂かれるような凄まじい轟音がし始め、その異様な轟音がしだいに大きくなって、何の音だろうと思っているうちに、誰かが「あっ、B29が落ちてきたぞ!」と叫んだ。するとキリもみしながら落ちてくる機体が目の前に現れ、「危ない!早く逃げろ」と言っているうちに、私たちがいた土手のすぐ近くに墜落し炎上した。

 私の母をはじめ多くの人が口々に南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などの念仏やお題目を大声で唱えていた。夢かと疑う熾烈な状況の連続は、まさに戦争映画に出てくるスペクタクルそのもの、これこそが生き地獄の「カオス」状況だった。静岡市中心部及び周辺市街地の空は燃え盛る火炎で真っ赤、市街地は火の海と化し、すべてを失い多数の死傷者を出した大空襲の悪夢の一夜だった。

 空襲の一夜が明け、やっと生きた心地を取り戻した私たちは、午前11時頃、廃墟と化した自宅に向かった。その途中、一面が焼け野原となってしまった道端には焼け焦げた裸同然の焼死体が折り重なるように散在していた。カラカラになっていた防火用水に親子らしき人が重なりあって焼死している姿は、何とも言葉に表せない無残でむごい地獄の光景だった。

 昭和19年の初夏の頃、東京の京橋国民学校の5年生だった私は、縁故疎開で弟と一緒に母の実家のある静岡市に移り一番町国民学校に転校となった。そして、翌年の6月19日から20日の空襲で焼け出され、再び、安倍郡(現:清水市)の母方の親戚に疎開となり、安倍郡の有度村国民学校へと転校となった。

 ところが、安倍郡に移ってからも空襲は続き、静岡大空襲とは、また違った意味での恐怖に毎晩のようにさらされた。夜半になると米軍艦から艦載機グラマンが数機編隊をなして次々に襲来し機銃掃射を行ったり、駿河湾に侵入してきた軍艦からの艦砲射撃の砲弾が着弾し、ドカーンドカーンと凄まじい轟音と地響きに悩まされた。

 広島市と長崎市への原爆投下があり、ついに終戦日となる8月15日を迎える。真夏の暑い中、親戚の人たちと一緒にガーガー鳴る感度の悪いラジオで終戦を告げる天皇陛下の放送に耳を傾けるが、何が何だかさっぱり分からないうちに玉音放送は終わった。ただ、子ども心に日本が戦争に負けたことだけは分かった。

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