つづりストしませんか! 作文募集サイト

今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 1945年8月15日 終戦・敗戦の日 越後平野の中心西蒲原の田舎町、お呼ばれした家で終戦の放送を聞く。夏休みで国民学校の男先生も来ていた。先生は泣いていた。わたしには放送の内容が分からず、終戦・休戦……戦争は一時休むのかと思われた。当時の私の住まいは、お寺の本堂である。急造のトイレからお墓が見える。1944年8月に行われた学校の疎開。3年生から6年生まで、疎開当時は児童45名。寮長先生と寮母さんが2名の大勢さんの合宿・共同生活である。終戦放送のあと学寮に戻っても、喜んでいる人も、敗れたことを悲しんでいる人も、帰れるんだと喜ぶ人もいない。この日の夜のことはあざやかに記憶から消えている。

 疎開前の私の学校は公立小学校としては最古の流れをくむ学校である。東京の下町、隅田川沿いの公園広場付の鉄筋校舎、関東大震災の復興校舎であった。1945年3月10日の東京大空襲で辺り一面は焼け野原になってしまった。国民学校卒業を間近に帰京した6年生のほとんどは焼け死んでしまった。

 わたしの母(37歳)、姉(14歳)、弟(7歳)、妹(6歳・4歳)も戦火から逃れることなく戦災死した。父は家屋が焼失するまで防火に努めなくてはならず(罰則付きの防空法)、先に空地目指して避難したのに……。わたしたち兄弟は新潟に学童疎開したおかげで助かった。いや一緒に避難すれば全員助かったはずが……。戦災死を知ったのは雪解けの彼岸ごろ、父が知らせに来た。母、姉、弟、妹たちはどこかで怪我しているのかも知れない、いつかは会える……こんな気持ちが長いこと続いた。

 ああ長岡市の空襲のときは、お墓を抜けてお寺の裏の竹藪に避難した。空が明るく染まっているのを見た。東京の空もあのように染めたのか、いやもっと激しかったのだろう。

 1945年10月、東京都仕立ての疎開帰京列車で上野に着く。母校の鉄筋校舎が両国駅からはっきりと見えた。内部が焼失、外形だけはそのままである。栄養失調で疥癬(かいせん)。家ができていないことと治療のため千葉・浦安の知人の家で2か月世話になる。そういえば私は浦安で生まれ2歳の時東京に引っ越したのである。

 12月の暮れに焼跡にバラックができた。屋根の隙間から雪がちらつく家だった。まだ人家は少なかったが、近所の人たちの手作業で配線され電燈が灯った。電力不足で停電が多かった。焼跡の水道管から垂れる水を飲み、薪は電信柱の焼け残ったタールを塗った部分を掘り起し、燃やすと油煙が凄かった。拾ってきた焼け残った木材を燃料としてご飯を炊く。ミニトマト・アカザが生えていた。「欲しがりません勝つまでは」だったが、戦争が終わり闇市には品物があふれ、生活に頼る場である。統制経済は続き、配給は野菜まで……お米の代わりに進駐軍の放出物資が配られ、パイン缶・砂糖まで含まれる。飢えた児童に、学校給食はララ物資の粉ミルクが主流、設備不足のため粉のまま舐めた。コッペパンとジャムも。

 母たちの亡くなった場所の近くの国民学校(本所)へ1か月、正月からは深川の焼け残った学校へ3か月お世話になる。1946年度からは同じ校舎の女子校だった部分が[学校アパート]になった。私立の女学校、区立の国民学校が3校、同居間借りの学校である。1946年わたしは5年生、元の学校が再開されたときの数は全校で45人。戦前は30学級の大きな学校だった。通学時間は30分、馬(牛)車の荷台にぶら下がりもした。当時はトラックさえ珍しく荷車は馬・牛に働いてもらった。だから電車通り・大通りで三角野球を自由に遊べた。車が来るとタイムである。また、公園・校庭も勝手に使えた。ここでは本式の野球だが、ユニフォームなどはなく、グローブさえ自由に手に入らなかった。[「6・3制野球ばかり強くなり」の時代である。費用やお小遣いは焼跡にあるこわれたガラス・鉄クズを拾い集めて売った。貧しさの中から生活の知恵を学んでいった。

 戦争は嫌だという共通理解で歴史観をくくることができないものか。「戦後処理」はまだ終わっていない。『昭和20年3月10日午前3時本所区堅川2丁目5番地ニ於いて空襲ニ因り死亡』と戸籍に残る母と童子・童女・孩子の生存の記録はこれだけである。震災記念堂敷地内にある慰霊壕にある名簿には記帳してある。 

次の作文へ >
もくじに戻る >
ホームに戻る >