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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 昭和19年に国民学校入学時には戦争も激しくなっていました。

 千葉県津田沼の私の家は東京湾に面したのどかな町です。海から100mぐらいの所に家があり、近くには防空壕も共同で作ってありました。ほぼ毎日空襲がありB29から焼夷弾が落ちると花火のように爆発して海に散らばりました。

 少しでも弾がずれれば死ぬかもしれない状況の中、B29が去っていくまで息をひそめじっと待ちました。弾が落ちた近くの畑は、巨大なすり鉢状の穴があきました。 家での夕飯時にも外に灯りがもれぬよう、電灯の笠に黒布を巻いていたことを記憶しています。夜間の空襲に備えて、着のみ着のままで寝ていました。

 出征する人々を駅で旗を振り見送ること、千人針の手伝いなど子どもでも仕事がありました。

 食糧難なので、栃木県大田原市から祖父がこまめにお米を運んでくれていました。祖父が津田沼に来ている時にちょうど東京大空襲がありました。その影響で省線には移動証明の無い人は乗れなくなり、祖父は栃木へ戻れなくなってしまいました。そこで、私を急きょ転校させることにして、移動証明を取ったのです。自分の意思とは関係なく転校することとなった私は、その2日後、祖父と省線に乗り津田沼から栃木県に向かいました。上野駅で乗り換えのため歩く道中、怪我をして肉がはみ出して座っている人、死んでしまったかのように動かない人も。そこを祖父の手をぎゅっとにぎって、またぎながら進みました。その恐怖は今でも忘れられません。

 その後、大田原市で終戦を迎えました。8月15日晴天の日、予防接種のため学校へ向かっている途中、商店の前で人々が泣いていました。天皇陛下の玉音放送です。幼かった私も大変だと理解は出来て泣きました。戦争に負けて果たしてこのまま生きていられるのだろうかと不安でいっぱいでした。

 終戦後、私は小学校4年生で津田沼の母の待つわが家に戻りました。その後は何度も米を貰いに、たったひとりで電車に乗り津田沼駅から西那須野駅まで行きました。行きは千葉でとれた魚をお土産に持って、帰りは10歳の私が背負えるだけのお米をリュックに詰めて、神経を張りつめて行動していました。

 乗り換える上野駅にはアメリカ軍のMPが荷物検査をし食料を没収してしまいます。私も何度か没収されました。なんとか母のもとにお米を持って帰らなければと、身体検査中の大人の脇をすり抜け電車に素早く乗り込んだりもしました。生きるために必死でした。

 5年生のとき、父の遺骨を受け取りにお寺に行きました。何百という白い箱が積み重なっていました。私は父の顔を知りません。私があまりにも小さいときに出征してしまったのですから。そのときの話では、昭和20年7月28日ルソン島で戦死とのこと、36歳でした。終戦まであとわずか、父も無念であったと思います。

 記憶もない父の遺骨を抱いて電車に乗ったとき、気づいた方は敬礼をしてくれました。私は父を誇りに思いうれしかった。

 いま日本は平和になりましたが、私の心の中では戦争を忘れたことがありません。

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