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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 私は母と弟との3人で終戦を迎えました。昭和20年、北京にいた私たちは父が東京勤務になり、連日空襲の東京より満州(現・中国東北部)のほうが安全だという判断で、遠縁のいる満州に母と3人で移ったのです。国民学校3年の春でした。場所は当時の満州の奉天(現・瀋陽)から200㌔離れた公主嶺という小さな町です。

 8月15日、天皇の重大放送があるというので大家さんのうちに集まりましたが聞いたのはガリガリという音だけでよく分かりませんでした。でも「日本は負けた」ということは大人たちの様子でわかりました。これからどうなるのか誰もが不安のまま、その日は静まり返っていたのを覚えています。しかし翌日の朝、喚声や叫び声が聞こえてきました。中国人の暴動、略奪が始まったのです。すぐに母と一緒に地下室に逃げ込みました。やがて玄関が破られ暴徒が大声を上げ家具をひっくり返す音、わめき声と足音が頭上から伝わってきます。身をすくめ体を寄せ合って略奪が終わるのを待ちました。彼らが去ったあと家に入ると足の踏み場もないほど家具や調度品が散乱し、父が置いていった骨董品や母の着物はほとんどなくなっていました。きのうまで同じ町で暮らし日本人と一緒に働いた彼らが一夜にして暴徒になり襲ってくるとは信じられないことでした。

 町にいた日本軍はいつの間にかいなくなり約700人の日本人が孤立してしまったのです。どこに逃げたらいいのか分からぬまま8月20日頃、ソ連軍が来るといううわさが広がりました。どうしてこういう情報が伝わるのか不思議ですが、また大家さんのうちにみんな集まりその日を待ちました。そしてその朝、ドアの隙間から彼らが現れるのかと息をこらして見ていると母が「水筒を家に忘れた、取ってきて!」と私に言ったのです。ところが私は膝が震え動けません。母は「今なら大丈夫、行って!」とせかせますが私は母の顔を見るだけです。そのとき弟がするりとぬけて100㍍ほど先の家に走って行きました。ソ連兵が現れないよう祈る気持ちで弟を待ちました。彼が息を切らして戻ってくるまでの5分足らずが何時間にも感じられました。母はふがいない長男をさぞかし情けなく思ったことでしょう。  

 やがて霧の中からソ連軍が道幅いっぱいの横隊で現れて来ました。見たこともないマンドリンと呼ばれる自動小銃を抱えゆっくりと歩いてきます。私たちはまた地下室に逃げ込みました。やがて彼らは日本軍の施設を占拠して略奪、婦女暴行を始めたのです。若い女性は髪の毛を切り男装しました。近所の中学生のせっちゃんも五分刈りにしてだぶだぶの軍服を着せられて私たちにも顔を隠すようになりました。守ってくれる日本軍も消え無力な日本人たちはとにかくまとまろうということになり、町の北部にいた私たちは線路をわたって日本人の多い南地区に移ることになりました。真夏のさなか、ありったけの衣類を着こみその上に冬のオーバーを着て女性と子どもたちは大八車に乗って南にある公会堂に向かいました。踏切にさしかかるとソ連兵の警備兵に止められた。何と弟の水筒を指さしている。母は「水筒あげちゃいなさい」と言ったが弟は大事な水筒を抱えて離さない。すると大男のソ連兵は引きちぎるように水筒をもぎ取った。彼の刺青をした太い腕には二の腕まで強奪した腕時計がズラリとつながっていました。彼は水筒の蓋を取りにおいをかぐとすぐ投げ返しました。だれかが「やつは酒が入っていると思ったんだよ」とつぶやいた。

 やがてソ連軍のあとは中国の八路軍(毛沢東赤軍)が侵攻し、こんどはそれを掃討するため国民政府軍(蒋介石軍)が街を支配しました。中国の内戦が始まって日本人の帰国がいつになるのか、食べ物はなくなり高粱(コーリャン)とさつま芋の毎日。子どもだけでも食べさせたいと中国人に自分の子どもを託す人も出てきました。何度も帰国のデマに振り回され自力で帰ろうと線路伝いに南下する家族もありましたが餓死したり匪賊(ひぞく)に殺されたりして消息を絶ちました。

 あとで聞いた話ですが母は何かあったら自決するよう父からピストルを預かっていたようです。心不全で病弱の母でしたが子どもを無事に連れて帰ることと日々の食べ物の確保で精一杯だったと思います。でも母の弱音を聞いたことはありませんでした。

 帰国が現実になったのは翌年7月でした。所持金は一人千円だけ、貴金属は一切没収、着の身着のままで無蓋貨車に家畜のようにつめ込まれました。なかには病身の父母を残し兄妹3人だけで帰るという小学生、母乳がでないので赤ちゃんを泣く泣く中国人に渡して帰る母親、帰っても日本で頼れる親族のいない人など、愚かな戦争に翻弄された人たちを乗せて貨車は出発しました。途中何度もソ連兵に止められ身体検査を受け「ダワイ」(何か出せ)と強要され、彼らが満足するまで貨車は動きませんでした。大連の西の葫蘆島に到着まで2ヶ月かかりましたが、それでも私たちが3人揃って帰れたのは幸運でした。

 貨物船から見た平戸島の緑の美しさに「ああ、これが日本なのだ」と感動したこと、佐世保で食べた白いご飯の美味しかったことを今でも覚えています。鈍行列車で品川駅に辿り着いて父や先に北京から引き揚げていた叔母に再会出来ました。再会の喜びの輪の中で栄養失調でガリガリに痩せた弟はまだあの水筒を下げていました。 

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