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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 本州の北の果て、青森県・下北半島の首根っこに田名部という町(現むつ市)があります。父の故郷で、国民学校2年生だった昭和19年の夏、母、僕と弟2人が神戸から疎開しました。はじめは戦争の物音さえしないのどかな田舎でしたが、昭和20年に入ると、そんなところにまでグラマン機の編隊が飛んで来て機銃掃射をかけるようになりました。近くに陸奥湾の大湊軍港があって、町の背後の高台にあった高射砲陣地が攻撃され始めたのです。

 その年の初夏のころ、僕の家では米軍の襲来に備えて、町外れにあった畠の隅に避難小屋を建て、男たちが交代で泊り込むことになりました。3年生になっていた僕もその一人です。初めて当番になったとき、こう言われました。「小屋のタンスに日本刀が入れてある。米兵が来たら、それで戦うんだよ」。たぶん僕の気持ちを引き締めようとした冗談だったのでしょうが、その言葉が気になって、小屋に入ると早速、引き出しの中を見ました。確かに、余り長くはないけど、持ち重りのする刀が入っていました。抜いてみたかどうかの記憶はありません。でも、「もし、ほんとに米兵が来たらどうしよう」と、あれこれ考えて、一晩中、眠れなかったことは今でも覚えています。手向かえばきっと殺される。それでも、逃げずに戦えるか。死ぬのが怖い僕には、「とてもできない」という気持ちをぬぐうことがどうしてもできません。こうして初めて、心の中に臆病な自分がいるのを見つけ、以来、そんな自分に悩むことになりました。

 敗戦の8月15日以後も、遠くで高射砲を爆破する音がする以外は、田舎の町にあまり変化は見えませんでした。ところが、しばらくすると、夕方から町のあちこちで押し殺したようなざわめきが立ち始めました。軍港の兵舎から、闇にまぎれて軍需物資を民家に運び出す人の動きです。除隊になるまでの間、兵隊さんたちはそれぞれ民家と話をつけて、軍の倉庫からの物資の運び出しと、帰郷までの保管を求めました。僕も家の大人たちが引くリヤカーを押して、運び出しを手伝いました。納屋には、たちまち分厚い毛布や、大きな缶詰、乾パンの箱などが積み上げられていきます。謝礼としてもらった品の中には、お湯を注ぐだけで食べられるぜんざいもあり、その甘さが今も舌の先に残っています。

 半ば公然と行われたこのようなことが、敗戦直後の混乱の中では、許されることだったのか、どうか、子どもの僕にはわからないことでした。しかし、厳重に管理されていたはずの銃弾まで町に流出し、少年たちの間に実弾集めが流行したことからみると、やはり、軍の規律は相当ゆるんでいたのではないでしょうか。僕も上級生からもらったりして、ピストルや小銃の弾十数発をハンカチに包んで隠し持っていました。友達と見せ合って、数や大きさを競う他愛もない自慢ごっこです。ところが、ある午後、近所で轟音がして、まもなく血まみれの少年が病院に運び込まれる騒ぎが起きました。僕は現場にいませんでしたが、兄弟の少年が大きな弾を分解していて、爆発したのだそうです。お兄さんは即死、弟の方もお腹が破れていて、まもなく死んだといいます。その話を聞いて、僕は大切にしていた銃弾を裏庭に穴を掘って急いで埋めました。

 僕の疎開体験は、空襲や引き揚げに比べればおだやかなものです。でも、大人たちの子どもへの目配りが薄くなっていた戦時下で、子どもなりに懸命に生きた日々でありました。いま振り返って「あの頃は、ずいぶん大人っぽかったな」と思えてなりません。

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