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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 9歳の夏、玉音放送を聞いた記憶がある。放送が終わっても二番目の姉と二人黙って座っていた。外出から暑そうな、興奮した様子で母が帰ってきて、「よその家では子どもたちも服を着替えてラジオの前に座っていたよ。あなたたちも聞いたでしょう」と言った。昭和6年生まれの姉が鋭い目で母を見上げて、「こんな大事な時にどこ行っていたの」と怒鳴った。母なら母らしくしてよと言いたかったのではないかと70年たった今思う。母が「あの子はあの日から笑わなくなった。昔はよく笑っていたのに」と言うのを何度も聞いた。

 母は親戚の家で泣きながら玉音放送を聞いたに違いない。その日、平町の大家族の親戚の家に行ったのは、広島に社用で出かけた夫の安否がわからないので、心配する気持ち、いらだつ不安を話しに行ったのだろう。

 母と4人姉妹は、父が伯父と経営する工場の敷地に家に住んでいた。黄色いあやめがたくさん咲き乱れる庭があった。

 伯父は専務、父は常務と呼ばれて数十人の社員は優しい人たちだった。父は広島に工場を建てるということで土地を探しに行き、予定を過ぎても帰らず音信不通のままだった。気丈な姉が誰に聞いたのか、等々力にとてもよくあたる占い師がいると言って父のことを聞きに行った。答えは生きている。すぐ帰る。今は佐世保にいるなどと言ったらしいが、誰も信じなかった。

 広島には新型爆弾が落ちて街は全滅したと噂が飛び交っていた。9月に入る頃、8月5日の夜、父と一緒にいたという人が訪ねて来たので、宿泊先がわかった。爆心地の宿であった。そこに社員が出かけて行って僅かな土を持ち帰った。  その日、連絡に来た伯父たちが帰ってしまうと母は幼い妹を膝に乗せて、白いタオルを顔に当ていつまでも泣いていた。「お父さんが死んだのよ」「お父さんは死んだのよ」言葉はそれしかなかった。二人の姉はそれぞれの勉強部屋にこもり、私は母の近くに座っていた。

 後々、身近な人は誰も当時の広島の様子を語らなかった。それが悲惨な状況の証しだと思う。

 生前の父は会社の仕事の他に町内会でも活躍していた。カーキ色のゲートルをまいて、戦闘帽をかぶった父を勇ましく立派な人だと思い、頼もしく見つめていた。社員や町内会の人が出征するときは先頭に立って軍歌を歌い見送っていた。

 庭に防空壕を掘って家財道具を運んだが、すぐ水浸しになって使用不能になる。あやめが咲くのは湿地帯だからに違いない。その防空壕に母と妹だけが入った。小さな布袋に入った煎り豆を食べたのが妹の唯一の思い出らしいが、何百万の子どもが飢えていた時に随分贅沢な話ではないか。

 隣組の人たちから空襲警報が鳴ったら町の防空壕を利用するように強く勧められて、母は妹だけ連れて行ったことはあるが大抵は家の押入れに隠れた。

 昭和20年5月24日、家の近くに焼夷弾が落ちた。母と私と妹は押入れの中から、目の前の工場の窓硝子に映る真っ赤な炎を見ていた。怖かった。平町の住宅街から大岡山小学校、品川区へと燃え広がっていった。

 二、三日してから大岡山小学校で焼け残った缶詰を拾えるというので会社の人たちが拾いに行き、焦げ臭いまま食べた。

 戦後は食糧難に困った。昭和2年生まれの姉は工場の人に誘われて、食糧の買い出しに行ってくれた。満員の汽車に乗り遅れて一晩中帰らない日があり、母は「いかせんば(熊本弁)よかったなぁ」と溜息をついてまんじりともしなかった。

 また、別の日は闇米摘発に会い必死に逃げた。同行の人たちが姉の行動力を褒めていた。

 重いリュックの紐が肩に食い込んで痛かっただろう。

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