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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 思い返してみると、私は戦争の外にいたような気がする。岐阜の田舎、山奥の町で過ごした。「紀元は二千六百年」と歌いながらの提灯行列も覚えているし、「皇太子さま、お生まれになった」という歌も歌った。十二月八日の「帝国陸海軍は戦闘状態に入れり……」のラジオ放送も聞いている。周囲には、「鬼畜米英」とか「欲しがりません勝つまでは!」というようなスローガンがいっぱいだった。

 勝った!勝った!また勝った!とラジオでも新聞でも伝えられ、私たちは家の壁に張ったアジアの大きな地図に日本軍の勝ち進むままに日の丸を立てていった。

 だが、アメリカの反攻が始まりシンガポール陥落の負け戦から沖縄の戦いまで追い詰められて、本土空襲が始まり、学校では「最後の一人まで鬼畜米英と闘うのです」「相手と刺しちがえて死んでも敵を倒さねばなりません」と教えられた。学校生活は、あまり勉強しなくて荒れ地を開墾して大豆やカボチャを植えていた。空襲警報が出るとみんな家に帰った。勉強はしないので家に帰れるのは子供心にも嬉しいことだった。一度も空襲はなかった。

 私の家は大きな地主で、秋になると小作の人たちが米俵をいっぱい運び込んだ。白いご飯を毎日おなかいっぱい食べていて「飢え」などというものがこの世にあることなど全く知らなかった。父母兄弟は中国の大連にいたので、戦争の末期五年間は私は祖父母と過ごした。祖父は普通で言えば立志伝中の人間で、貧農の十三男からどういう経過で儲けたかは知らないが山林と膨大な農地と大きな菓子屋を持っていた。私が大人の話に全く関心を持たなかったこともあるが、私は、祖父母からも父母からも愚痴とか世間の悪口とか噂話などを聞いたことがない。今でも私は第二次世界大戦敗戦で日本の得た一番大きなことは「財閥解体と農地解放」だと思っているが、いきなり財産のすべてを失った祖父母、父母がそのことを全く愚痴らず嘆かなかったことは本当に潔いことで、潔い家族であったと思っている。

 爆撃も餓えも知らないまま敗戦を迎えた。国民学校5年生の夏である。もう5~6歳年上であったら、いくら戦火と関係がない土地にいても、立派な軍国少女になっていただろうと思うし、男の子だったら予科練へ行くとか特攻隊を志願したいとか考えていただろうと思う。とにかく何も知らないままの敗戦である。

 なにか変だ!と思ったのは、昨日まで「撃ちてし止まん!」「竹槍で一人でもアメリカ兵を殺して死ね!」と言っていた先生が一か月もすると「民主主義は……」などと話しだしたことである。

 いろんな島での玉砕、沖縄の悲惨、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下など・など・など。ナチス・ドイツによるアウシュビッツでの虐殺など・など。全て後に学んで知ったことであった。

 私は、毎日が楽しくて面白くて、何もわからなかったが、全てを失った後は、売り食いの毎日だったのだろう。広大な屋敷の中にはいくつかの倉があり、二十畳くらいの部屋の二つが、今でいえば『なんでも鑑定団』に登場するようなものが積み上げられていた。掛け軸とか焼き物とか? あまり詳しくは知らないが、十年くらいでゼロになったのではないかと思う。鑑定団でもため息が出るような掘り出し物があったとは思えないが、百人から百五十人は接待が出来るような家構えであったし、台所の納戸には茶碗類、漆類、膳、その他すべてのものが百五十人分くらいずつ揃っていた。座敷の軸、絵、焼き物などはマユツバ物であるが、台所の納戸にあった伊万里類、漆類などは、相当貴重なものではなかったか?と思っている。私もそれぞれの物を父母に内緒で、十組くらいは持ち出している。

 それらの物はすべて消え、大きな屋敷も並び立つ倉も、みな消えた。

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