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今年は戦後70年。敗戦時に国民学校1~6年だった方の、戦争体験作文を募集中です。




 兵庫県西宮市建石国民学校6年生だった私は、昭和20年3月に縁故疎開で熊本県玉名郡の南関国民学校に転校。級友たちは、岡山県倉敷市郊外のお寺に集団疎開で早々と移動していた。

 疎開した最初の登校日は運動場がさつま芋畑に変わる日で、「卯の花の匂う垣根に……」と歌いながら運動場を耕す校長先生の明るい声に慰められた。芦屋では食糧難で、牛にやる飼料の豆かすが配給された。ご飯に混ぜて炊くと豆かすがふやけてざらざらした感触で、満腹になってもまずくて、匂いだけで食べる気がしなかった。田舎の南関では、まだ白米が食べられて幸せだった。

 疎開先の九州に向かうのは3月10日のはずだったが、その日大阪と神戸に爆撃があり、汽車に乗ることができなかった。夜はまるで花火のように燃えては光る神戸が見えていた。3日後、姫路高校の寮にいた長兄が迎えに来て汽車とバスを乗り継ぎ、10時間以上かけて叔父の家に連れて行ってくれた。

 近くの大牟田に三井の炭鉱があるせいか、敵機はたびたび襲来し、空襲警報のサイレンが鳴る。すると夜中でも飛び起きて、伊豆から疎開してきた祖母とともに横穴式防空壕がある山腹まで走って逃げた。祖母は背が高く、腰が曲がっていたので杖を突いており、三本足で走るのが実に早い。はあ、はあ言って祖母を追いかけるように走りながら、私は自宅に残る叔父夫婦を羨ましく思っていた。

 8月に終戦となり、学校では農作業や草鞋編みではなく授業が始まった。しかし、歴史教科書の墨塗りが最初の授業だった。私の疎開生活は、6か月ほどで終わった。9月に母が迎えに来て、芦屋の自宅に戻ったからだ。芦屋では中学生の次兄と3歳の妹が待っていた。小型爆弾が庭に落ちて、天井板をぶっ飛ばし雨漏りがした。玄関に置いてあった大きな衝立にも、寝室の箪笥にも、爆弾の破片が突き刺さったままだった。

 私の疎開後、6月5日に阪神間に大空襲があり、兄と妹は防空壕に逃げたが、買い物から戻ったばかりの母は、防空壕に走る時間もなくB29が襲来したため、衝立の陰に隠れた。買ってきたばかりの一升瓶の醤油が爆弾の破片で割れて、あたりに飛び散った。母は「醤油瓶が犠牲になってくれた」と思ったそうだ。一刀彫の大きな黒檀の衝立が、母を守ってくれたのかもしれない。

 昭和21年2月に、12歳の私と4歳の妹は、母が伝染病に掛かったので“隔離”すべし、と祖父母のいた伊豆半島の突端で過ごすことになった。現在は御用邸になっている当時の三井海洋生物学研究所で、叔母に連れられて満員列車、バス、トラックを乗り継いで、さらに40分細い山道を歩き、白砂の海辺に着いた。三井邸の周囲の野原には何頭もの綿羊が草をはみ、牧歌的な風景が広がっていた。海の幸、山の幸があり、まるで別天地である。私は下田中学校に入学し、そこから約6キロの道のりを通った。その別天地で父の帰国と、母の他界を知った。

 父は昭和19年4月以来、京城(現在のソウル)に単身赴任していて、昭和21年5月末にリュックサックひとつ、着の身着のままで芦屋の家に辿り着いた。病気の母は、父の顔を見ると安心したように、息を引き取ったという。6月5日、そう、醤油瓶が犠牲になった一年後のその日のことである。

 実は私が10歳、妹が9か月の時に実の母を亡くしていたのである。明るくて優しい二度目の母をも失ったことになる。両親や兄弟を一度に亡くした、自分よりもっと不幸な友達もいる。自分には父もいる、兄もいる。そして妹も。何も知らぬ妹は、「カム、カム、エブリボディー」と無邪気に歌っていた。 

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